表現論

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国権、主権、主体、政体、国体、憲法のそれぞれの述語を考えると、美濃部達吉の議論の仕方は、国際法における立・美濃部論争に典型的に見られるように、アマルガムな現実論である。立作太郎と、美濃部達吉は、意外にも大学の同期であるが、より理論的なのは立である。美濃部は英学流独逸学派であって、独逸学派の上杉とも論争したが、やはり独逸学派の立とも論争したのだ。それでは、英学派は誰だったかというと、平沼騏一郎であって、憲法批判で謂う「自由主義」とは、このような意味で自由主義だったろうか。
これは「統帥権干犯」問題でも実は根が同じである。
統帥権干犯」問題の原型は、実は、イギリスの政体にあって、ナポレオン戦争からクリミア戦争における軍の位置づけに関しての、アーサー・ウェリントン侯爵の議論をなぞられているかのようである。
そもそも「統帥権干犯」を議論に載せた嚆矢は、民権派の重鎮、犬養毅であった。

👆これが以外に面白い。これだけ網羅されると、時代の持っていた機微まで伺えて、圧巻である。数学史もそうであるが、こういう仕事がしてみたい。


ここで、権力分立の、実質的意義が問われる。
  を「三権」、Powersを「権力」と無自覚に訳して妥当であるかを考えたときに、「権力分立」から「諸勢力」まで実は幅広い意味を持つ。
美濃部達吉天皇主権を自明のこととして(「天皇」として)記号化し、表現論で、実体的な「諸勢力の均衡関係」を企図したとしたら、後の混乱に深く影響を与えたとも考えられる。
前時代の将軍による天下規範内の均衡(将軍権力の確立と「外様」「親藩」「譜代」の抑制的配置図式、皇室との権威の均衡、武士、商人、百姓、町民への支配の徹底)から、国権の確立と

三権分立は、その「発明者」であるアメリカ建国の父の一人、フェデラリスト、ハミルトンの意図は、権力基盤の弱かった「会議」の権力強化であって、中央集権化を進めるにあっては、システマティックに非人称化する国家観が必要であったに過ぎない。要は、権力こそ作用であるから、円滑に効果を発揮しなければ国家として「困る」ということに過ぎず、よく喧伝されるようなトクヴィルアメリカ像はロマンティックな物語である。すなわち、アメリカ流の「国権の確立」が急務だったに過ぎないのである。
したがって、三権分立もそもそもが表現論であって、目的は、円滑な国家権力の行使だったに過ぎない。曖昧模糊としているがゆえに、事情ごとに「内部抑制」が効いては、「困る」のである。作用・反作用を明確にして、機械的な権力行使が望まれたのだった。約因論がアメリカの法社会の特徴であることを思い出すべきなのだろう。

 

さて、左翼の鈴木安蔵の分析に見られるように、あくまで憲法学派の正統は穂積乃至その後継の上杉であって、「立憲派」の美濃部は傍流に過ぎない。

鈴木安蔵 - Wikipedia
日本憲法学の生誕と発展 - 国立国会図書館デジタルコレクション

しかし、美濃部は、表現論から法的革命を仕掛け、内実として「成功」していたのだ。
すなわち、日英関係から語られた憲法論がデモクラシーの発展に伴い、より抽象的な日独関係へ移行してゆく中で、「オールドリベラリスト」の美濃部は、吉野作造らと日米関係へ棹差した。そこで出てくるのが、〈古い〉三権分立論で、この古さとは『憲法議解』で伊藤博文が解説してあることだが、実際は、アメリカ革命を移植できなかったフランス革命以降の近代化にとって「古い」という意味である。これが英米仏の憲法観が明確に「違う」とフランス人にも言われるところである。

ところが、この三権分立論が、アメリカの巻き返しによって息を吹き返すのである。このとき、「使われた」のが美濃部達吉で、舞台はヘボン講座であった。比較法制史の専門家であった美濃部の従来の憲法比較における主張と何か変わっただろうか。

中島重 - Wikipedia

弟子の中島は多元的国家論で、調和を図る。

日本憲法論 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

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こういった「朝日的」な権力分立論で見落としがちなのは、法学の現実的側面で、権力集中を防ぐために相互作用による牽制が必ずしも是でないのは、陸軍大臣の推薦拒否への軍部首脳への突き上げの日常化からわかる。それが民主主義なら、彼らもまた民主主義の申し子だったのだ。
国権の統一の表現内において、権力行使が円滑な程度に集約的であることが、三権分立の本質であることが、「発明者」であるハミルトンを見てもわかると思う。

そして、戦前、美濃部が、学閥支配を通じて、時に(素人相手に口説を弄して)国会を丸め込み、時に(枢密院議長を)恫喝することで、或る程度達成していた「実質的な革命」は、軍閥の台頭によってリニューアルした「正統派」に捲土重来を図られたが、中途半端な「現実路線」がGHQから相手にされなかったとは言え、敗戦による軍の解散を経て「8月革命」に引き継がれたのである。
米国憲法を理論的に論じ得たのは、美濃部だったのである。
そして、それは、戦前のアメリカ自身の運動によるものだった。
美濃部はどこでも「中間的」な役割を果たしてきたのだった(だから、自身も先鋭的で斯界を席巻したが、後に先鋭的な勢力に負け続ける宿命を背負った)。
日本の近代化を考えるうえで、代表的な「二流」の人物である。

 

 

『帝国憲法義解』