第二は、近代立憲主義国家が生まれた際に国民代表としての議会が果たした役割の相違に応じて、三権を憲法の下で同格なものとみるアメリカ型と、議会を中心とする立法権優位の権力分立を考えるフランス型とを生んだことである。すなわち、アメリカ合衆国は、圧政的なイギリス議会の制定法と人権を侵害した州の法律に対する抗争を通じて形成されたので、立法権不信の思想が強く、その結果、三権は憲法の下に平等の地位を占めると考えられたが、ヨーロッパ大陸諸国(とくにフランス)では、
(『憲法』(初版)P216 第14章国会一権力分立の原理(二)歴史性(2))
どうも、英米法/大陸法で憲法を「切る」のも無理がある。
いつも言うことだが、すべての制度は補完制度である。
多様な憲法形態が歴史上試されているのである。
特に、スェーデンとポーランドは、なかなか注目されないが、帝国と諸邦の形式的統一を企図する「国家主権」というドイツの発明と比較できる連合法の非対称性や、「君主制国民主権」という革命的なアイデアが、極めて興味深い。
イギリス憲法
アメリカ憲法
フランス憲法
スェーデン=ノルウェイ連合法※
ポーランド=リトアニア共和国憲法
ドイツ憲法
パウロ教会憲法
ビスマルク憲法
ヴァイマール憲法
※ ドイツの影響力(赤字強調は引用者)
1815年8月6日に国王の裁可を得た連合法は両国に異なった形で履行された。ノルウェーでは、同法はRigsaktenとして知られる憲法の一部であり、スウェーデンでは同法はRiksaktenとして知られる一般法の諸条項のまとまりである。ヨーロッパ全域で多くの領土の変化をもたらしたウィーン会議においても、このノルウェーとスウェーデンの連合は議論されなかった。フェロー諸島、アイスランドおよびグリーンランドのノルウェー領はデンマークに残された。
リクスダーグ (riksdag) とは、ドイツ語の帝国議会 (Reichstag) をスウェーデン語に直訳したものである。スウェーデンの憲法ではリクスダーグについて小文字の r で書き出されており、このためリクスダーグは固有名詞ではなく普通名詞の「議会」となっている。なお、フィンランドの議会のスウェーデン語名称(フィンランドではスウェーデン語も公用語)も「リクスダーゲン」である。
カール15世がその生涯を懸けて得ようと努力したプロイセンを模範とする計画だったが、一部は経済的理由により、一部は国王の好戦的な傾向に対する不安により拒まれた。
1864年、カール15世はデンマークと反プロイセン同盟を形成しようと努めた。またデンマーク敗北の後にはカール15世は、北欧におけるプロイセンの優勢に対抗するため、フランスの助けを借りて(望ましい)スカンジナビア連合を計画した。この政策は1870年にフランス帝国が転覆したことにより自然と破綻した。
ちなみに、カール15世はナポレオンと所縁が深い。
デジレ・クラリー(ナポレオンの婚約者)ーオスカル1世(父)
ジョセフィーヌ(ナポレオンの最初の妻)-ウジェーヌ・ローズ・ド・ボアルネ(ナポレオンの養子)ーマクシミリアーヌ・ナポレオーヌ・ド・ボアルネ(母)
そのうえで、5人のドイツ人の学説上の違いとその背景と日本(伊藤、井上、金子、伊東)への影響を比べる。美濃部の「定説」はどこから導かれたのかーなぜ、美濃部は伊東は反目し、解釈改憲を行ったのか。
カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル
アルベルト・モッセ
ゲオルク・ミヒャエリス
ルドルフ・フォン・グナイスト
ロレンツ・フォン・シュタイン
キーパーソンの青木周蔵。ちなみに長州の村医の息子である。上杉、美濃部と医者の息子が多い。
1873年(明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年にはオーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。1876年にはエリザベートと結婚を決意し(略)
モッセは「明治憲法の父」らしい。