もうひとつの主権論争 汪兆銘と阿部信行

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自由貿易圏と貿易省設置問題
大蔵省発だったんだなぁ。
環境省もしばらく大蔵省(と厚生省)出身者が事務次官になっていた。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/showa3_09.pdf

そういえば、若いとき、見知らぬ人から「見に行ってこい」と言われたなぁ。
それまでも、それ以降も、何の縁もなかったし、ないけれど。
自衛隊生徒見習い候補補欠」くらいだったのであって、幼年学校を出たわけではない。12歳(早生まれ。中一)の時の『遼東半島の戦略的意義』も14歳(同。中三)のときの『クリミア半島の戦略的意義』も満足に答えられなかったんですけれど。

 


でも。本当、見に行っておけばよかった。

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☟これは本格的でいいね。まず穂積批判の系譜乃至穂積研究の系譜から入っている。

穂積八束の「公法学」(1) 坂 井 大 輔

穂積が憲法学の第一人者で最も正確な解釈を理解していた者で疑いはないのだが、これは言い換えれば、法実証主義をめぐる争いであって、目下の天皇主権と三権分立の対置について「自己拘束説」を否定するのが、その(法実証主義の対立)の表れといえるだろう。法実証主義に関して、よく大陸的/英米的で区別されるが、穂積においてはむしろここで謂われるような「英米的」な印象を受け、或いは自然法的な印象を受け、実際に自然法の理解に関して「慎重派」(民法典論争における。フランス民法をもードイツ民法と合わせてー論じる、その実、独逸学派で、八束の兄の  が重鎮。)  の理解を「そんなものは自然法でない」と言ったのだが、彼はむしろドイツの歴史法学から社会進化論を受け入れていたのだろうか。要は、法的保守主義者(一種の古文辞学者。要は、一字一句に立ち返って厳密に理解するがゆえに、その限界を知るが、解釈で誤魔化さない。美濃部は解釈改憲で国家主権を確立したがーそれまでも近代国家の性質上そのようなハナシがあって上杉はそれで師である穂積を当初は大いに批判したものであるが主唱者の当の本人であるイエリネックの薫陶を受けて考えを改めた。そう考えると、穂積はやはり、当時において、真に一級の人材であったと言えるー自己拘束されたのは天皇ではなく国家そのものであった。現代的な観点から何を以て「最善」とするかの判断が難しいが、穂積の慧眼についてはもう少し気づかれてよい。結局、ヨーロッパ大陸の知識人が匙を投げた第二次世界大戦の法的な締めくくりを成し遂げたのは、楽天的なアメリカによる「狂信的」な自然法主義だったのだ。共和制と謂ったところで、そんなものである。)であり、かつ、漸進主義者であった。
それを「ムード」で覆したのが美濃部で、これが「革命」なのは、その後実証主義なのか、実定法主義なのか、要は、憲法解釈を棚に上げ、下位法の厳密性と拘束性を以て、国家主権の制度を作り上げてゆくからであった(これは戦後でも続いていて、アメリカ人の作った憲法大陸法の解釈で運用するこのキメラ的な憲法の実態を支えていたのが下位法とそれらを所掌する行政:官僚組織であって、それがようやく変わってきたのが、消費者庁設置後の、最近である。これは維新後の体制と比較でき、官僚組織を残したがゆえに漸進的な変化を受け入れざるを得なくなったことを考えると、皮肉と云えば皮肉であるーかつて「革命的」であった者たちの末裔は「漸進的」であったのだ)。
このような対立の中で「主権在民」という「発想」が生まれてくるのであって、自然法で在れ歴史法学で在れ実定法から超越した存在を(したがってすでに「象徴的」であり、これが穂積ら一派の主張の色彩となっている。)認めるか、近代国家は統一した行為意思の責任帰属をめぐる機序のことで、近代国家を実定法による制度形成と見做してどう議会をどうその相互機序に組み込んでゆくかであって(ここで議会主権と対立する。天皇機関説と並置される国会機関説。当たり前のようであるが、その社会に響くニュアンスのことである)、そのような制度の総体(としての相互機序)を国家主権と呼ぶが、その国家主権を認めるかであった。「天皇主権」とはそのような相互機序から独立した権威を持っている、という程度の意味だったとするなら、それはー議会とも政府ともほとんど無縁なー多くの庶民、特に戦前の8割以上を占めた農民から支持されたとしても故無きではない。これは政府対庶民であり、中央対地方を背景に抱えていたのだ。実定法はハンドフリーな政府と政商と彼らが活躍する中央のものだったからだ。地方では、(帝国議会ではなく)群会、市町村会が民主主義の舞台だった。

総務省|地方自治制度|地方自治制度の歴史

そうして、主権論争を抑え込んだ「美濃部革命」以降は、実態を争う、国家主権と国民主権の対立となったのであった。そのような相克の間に合って、例えば、女性の利益はどうであったかも揺れ動き(c.f.女性戸主相続をめぐる判決)、議会の持つ安定した強権:議会を一器官(機関)にもつ国家主権(リバイアサン大日本帝国では、リバイアサンの身体は、国家機関でできていた。)の安定した強権に恃む普選運動も活発になるのであって、近代的制度の普及と軌を一にして増えた人口による社会期待の変化が、民主主義の運動を賦活してゆくのであった。

一方、中華民国は、「5権(立法、行政、司法、監察、人事)」を標榜するのであった。


それにしてもソ連はそこら中に影響力を行使していたな。

汪兆銘南京政府が傀儡って、毛沢東よりはましだろう。毛沢東スターリンの「部下」だぞ。蒋介石アメリカとの関係もそうであるが、要は、中国大陸は列強の草刈り場だったのであって、どうにか安定する方が望ましかったのだけれど。それこそコモンウェルスの成立について、中国で「そうしよう」なんて誰も言わない。ヨーロッパ大陸でそれが通用したとしても(ヴァイマール共和国)。

要は、高が知れているハナシだ。