伊藤和夫botツイッターをざっと見たけれど、18歳の方たちには、励ましになると思う。

ただ、そういう子たちの親の世代である自分のような者からすると、「えらい『角度』のある人やなぁ」と複雑な気持ちになる。
それは「自分たちのときと違う」ということではない※。
つまり、「受験なんて人生の長い時間の中で『ほんのいっとき』のことだから、しばらくそれで辛抱してもらえばいいかぁ」くらいの気持ち。

※例えば、英文解釈についてわからなかったときに、「触れられている話題について知らなかったからだ」というのは、お誂え向きの言い訳なんだよね。わからなかったときに「それ知らんし」って言うのは悔しさや慰めであってそれを敢えて責める必要はないが、たまたま知っていてそのおかげで解けた人がいるとしてもそれを逆手に取るのは「嘘」だよ。これって結局、受験批判にありがちな、「それずるい」論法なんだよなぁ、所詮。

彼もやはり「公表しろ」と云うのだけれど、そうしたら「採点の自由度」で話が収まるはずがなく「設問の自由度」が奪われる結果になると思うよ。それを試行したのが実は「民間試験」であってこれは方々から反対にあったわけだ。

いやいや、貴方たちが目指しているのは、本当はソコですから。
要は、受験生の目先の利益にひどく敏感な人であって(ある種のマーケターであって)、受験生にとって「受験」はまさに目の前の困難であるから「わらをもつかみたくなる」って事情に見えるなぁ。


note.com

なるほど。勉強になった。ありがとうございます。

 

①算数教育 「割り算のひっ算」
②国語教育 「意味論の「読み物」と文化理解と文法教育の欠如(試行としての文法教育)」
③社会(法学)教育 「三権分立の「嘘」」

よくよく考えてみれば、広い意味での「言語理解」の順序になっている。

 

伊藤が「本当に」行っていたのは、何だったのか。
文化の差異に基づく文化理解から科学的理解へ、言い換えれば、(経験主義的な)術から(演繹的理解を経験によって補正する)法への転換を迫ったのであり、つまりは、「自然過程の斉一性」の信念のもと、再現性がある、と述べたのである。

暗号解読はどうだろう(伊藤の「構文主義」をどう理解するか)。おどろくようなことではない、この文の中にも「読」は入っている。

「読」とは成り立ちとしては『言葉を続ける』だったらしいが、より抽象化されて『意味をとる』になったらしい。要は、(それ以上続かない)一文字の「あ」でも読めるわけで、このとき、対象となった何かしらの意味が伝わることを指す。すなわち、ここで要求されているのは、「対象化」と「伝達化」であって、つまり、「対象化」には「貴方」と「私」の選択可能性が含意され、「伝達化」には共有可能性が含意される。そしてこの2つが兼ね合わさるときに、「内部」と「外部」が含意される。

対象それ自体(内部)の情報の理解がすでに共有できる機序を備えているが、内容を十分に理解するため対象の外部にある情報で補正する必要がある。

対象の意味は外部情報と不可分に結びついてそれらとの関係から生み出されることであり、共有すべき外部情報は彼我それぞれであるため、いったんは外部情報の共有者間でそれぞれに理解するのが自然であるが、共同体どうしの共益に資するために対象内部の構成機序を参照するのが望ましい(意味は文化の産物であり各々の共同体が独自に構成するところ、交流を為すには、能率上の予期を形成する必要がある)。

こうやって説明しようとする難しさが何かしらを表している。要は、前者の説明はすっきりとして確信に満ち、後者の説明は探り探りであるために冗長であり、おそらく、英語の教授法もそうだっただろうとの想像が働く。

 

なぜ、こういった想像が働くかというと、①明治期における英語の成立の概略(と謂えるほどではないが)知っている、ということと、②法学における実証主義の種類を知っていることと、③文化的差異や他者理解を小学校の国語(と初期のALT派遣事業。ただし、2時間程度)で学んだという経験からだろうと思う。
①については、英學の成立から英語にいたった歴史的変遷とその環境の変化、辞書の構成の変遷に関して、国会図書館デジタルアーカイブを使って、興味の持てる資料を漁った経験、②については、これも①と似たり寄ったりだが、そもそもの動機は「法実証主義」がよくわからなかったためであり、『法思想史』(有斐閣)から出発し、論理学を手短に回った経緯を持つ(余談だが、「神の存在証明」が一番わかりやすかった。実在論争である。「神の存在証明」を噛み砕いて言えば、神は常に言い足りない存在であるため、我々が神の全体乃至すべてを知るにはおのずとー論理的に当然なー限界があり、その限界をー論理上ー明らかにすることができることの証明である)。③については、伝播による言葉の変化と振舞(の違い)の説明理由の違いと語彙の違いであり、いずれも高学年以降の(国語の)学習内容である。もう少し下の学年ならば、或いは社会科などを通じて、地域の伝承を知ることもあったかもしれない。いずれにしても共同体(の維持)に不可分な言葉との関連への理解が目的である。ただし、伝播に関して、初めて「法則性」について触れる機会をもつ。ただし、それはきわめて制限的に扱われ、主題からは排除されていた(主題はあくまで文化理解である。「法則性」は科学的すぎて、今「論理国語」であらためて科学的事実を記載した記事を読むことが問われ、求められているが、抽象的な事実の理解力が或る程度発達した中学生、高校生ならまだしも、かつての小学校の国語の授業でそれは求められていなかった)。

なぜ、こんなまどろっこしいことを言うか。
英語に限らないからである。
以前、割り算のひっ算を教えるにあたって、「立てて」が意味不明であるとの  
自分はそういった授業を受けたことがなかったので意外だったからうろ覚えである(実際に私が受けた算数の授業では「そういった方法もある」と紹介されて終わったので、実践したことがない)。その不満というか、軽侮を漏らしていた方は、方法を闇雲に(叱責と、ときに暴力を使って)覚えさせるのではなく、理解させなければ仕方がないというようなことを言ってたのではないかと思う。
教授法に対する共通する不満が見て取れないだろうか。
しかし、「九九が不要」というヒトもムカシっから居る。私も小学校1年生のころ、習い始めのときはそう思っていた。わからなかったというよりも、全部覚える意味がないと思ったのであるが※、それを自慢したいのではなく反対に「覚えてよかった」と心の底から思っているのである。考えずに諳んじることの代えがたい能率性がある※。
要は、そこには、「理解」に対する憧憬がある。
※だいぶあとになって知ったが、ビッグ錠先生の漫画(『塾師べんちゃん』間抜きの術)では、九九に悩む子どもに劇的な方法で習得させる回があって、なんのことはない、「全部覚える必要がない」ことだったのである。それでも覚えなくても「一緒」だろうか。2000円札はそれでも沖縄以外で流通しなかった。社会制度における有用性が使用価値を決めるからである。ここで着目すべきなのは多くの人が退蔵しないことで貯蔵(額面)価値よりも使用価値なのであった(さっさと掃けた方が良い。一定量が速やかに当局へ回収されたのであった。沖縄では今でも普通にマーケットを回っているらしい)。意外なことであるが「科学的に考える」ひとほどこの事実を考えたがらないのではなかろうか。ちょっとした「気分の違い」(に類する程度)のことが社会への占有力を発揮するのだ。いわば社会の自己拘束であるが、目的論を唱えたところで、「自己拘束がある」のだから仕方がない。仕方がないものは仕方がないので、私的利益を追求するのであれば、覚えた方が「得」ではある。
ちなみに、数学者ならそんな面倒なことをしないと思うのは早計で、ある数学者は、外国語の習得に関しては丸暗記を実践し(推奨し)ていた。ひとそれぞれである。興味深いのは「てっとり早く済ます」には丸暗記であって、数学研究に時間を十分割きたいのであって、外国語の習得にいちいち時間をかけたくなかったから、丸暗記をしたのであった。それが驚嘆すべきというか、このひとの丸暗記は本当に丸暗記で、辞書一冊を丸々覚えるレベルであったらしい(しかも多言語でそれをやったらしい)。それでも「理解」のための労力を数学研究のために惜しんだのが、この数学者である。もはや理解の埒外であるが、前述の「理解」への憧憬が憧憬であると言ったのにはこういった理由もある(それだけではない)。

 

さて、伊藤氏である(以降、適宜、敬称略)。

長野県生まれ。1944年、東京都立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)卒業後、第一高等学校(旧制)を1944年(昭和19年)に受験した。なお、1941年とこの年は旧制高等学校入試にて受験科目から英語が除外された例外的な年だった。予備校で受験英語の教授に人生を捧げた伊藤だが、自らの旧制高等学校受験(新制大学受験に相当[注釈 1])では英語の試験が無かった。第一高等学校卒業を経て、1947年旧制東京大学哲学科入学後は病気療養を挟みつつ、1953年旧制東京大学哲学科卒業した。卒業論文スピノザの「エチカ」[3]。

1954年、横浜の山手英学院の英語科講師となる。

伊藤和夫 - Wikipedia

 ひょっとしたら星新一と同じ年ではないかと思い、『星新一 』(最相葉月)を開いてみた。Wikipediaはこの辺ちょっとわかりにくい。

星新一 - Wikipedia

と思っていたら、本でもわかりにくい。戦争末期の動員と飛び級が重なるうえに、本の体裁がわかりにくいためだが、とにかくも、旧制高校を卒業して、終戦の年に当たる昭和20年の4月(春入学)に東京大学に進学したらしい(進学後に終戦)。だけれども、もっと面白い記述を見つけた。同年に、東京高等師範学校附属中学校で星と同級生だった(ともに14年入学、4年修了。)日本建築家協会二代目会長の北代禮一郎(父親は北代誠彌。元日本銀行副総裁など)が一高(星は東京高等学校であったが、同じく18年入学、2年修了。)を卒業して東京帝大(第二工学部)に入学したのであるが、その北代は筆者から出征への負い目を問われたとき答えてこう言った。

一高、帝大は、戦争には批判的だったんです。反戦的で軍部ににらまれていたくらいだから。自治と自由の雰囲気があったので、よけいに罪の意識は低い

 

第二章 熔けた鉄 澄んだ空 P103

罪の意識や 悲しみではなく、安堵感や再生への決意だったらしい。
ただし、終戦直後の全寮幹事長と務めた越智昭二は『兵隊に行くつもりで行かなかった経験というのはその後の人生に大きく影響したのではないか』と問われ

『(そのとおりです)兵門をくぐるか否かは大きな違いでした。あと、内地に留まったか、外地に生かされたかでも大きな差です。だから、入営待ちで降伏を迎えたというのは一番ラッキーでした。』(同P104)

と答えている。つまり、それらに加え、自己の努力と無縁な幸運をかみしめていたらしい。
対照的だったのかどうだったかは知らないが、鹿児島の七高からは、穂積五一、四元義隆が、熊本の五高からは松岡平市が出ているが、ともに帝大七生社の関係者である。
大七生社はその会員に血盟団事件を起こした者も居て褒められたものではないが、このころの「民主主義」には注意が必要で、「国家主義」を標榜したが、「国家主権主義」への対抗からその一器官であった(に過ぎなかった)国会をめぐって選ばれた者たちによる「選挙主義」に対抗して草の根の「愛国主義」を立ち上げたが表立って「民主主義」とは言えない事情から(吉野作蔵にしたところで「民本主義」と嘯くのがせいぜいだった。)泥縄的にスローガンを発していたところがあって、穂積五一は「反東條」で国際主義者だったそうだが、また、「至軒寮」(戦後は「新星学寮」)と名付けた学生寮を運営し、元社会党党首の村山富市も住んだらしい。村山富市明治大学専門部政治経済学科で哲学研究部に属していたらしい。明治だからどうだったかと思わないではないが、確かこのころからマルクスに親しんでいたと思う。要は、このころは、ごちゃごちゃしていてよくわからないのであった(ただ、もちろん、テロはよくない)。

 

ともかく、終戦を跨いだ変な学生時代をおそらく『ラッキー』にも過ごした、都立五中~一高~東大と進んだエリートの伊藤は何をどう批判したかったのか。
府立五中の初代校長である伊藤長七は、伊藤和夫と同郷の長野出身で、特徴的な教育を行ったことで有名であるらしい。

「原理は後にして先ず事実」との方針から、府立五中には、当時としては異例の高度な設備を持った化学実験室が備えられ、授業の中心に実験が据えられる画期的な授業スタイルを実践した。

伊藤長七 - Wikipedia

kansui.anjintei.jp

👇はお孫さんらしい方の著書 。伊藤長七には7人のが子いたらしい。👇の方は長七に合ったことがないらしく、父親が伊藤和夫ということはないらしい。

 

教育の目的を倫理学に、方法を心理学に求め、教育学を体系化した。教育の方法として「管理」「教授」「訓練」の3要素(教育的教授)を提唱し、教育の目標は強固な道徳的品性と興味の多面性の陶冶にあるとした。

ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト - Wikipedia

伊藤長七はヘルバルトから四段階教授法を引き継ぎつつ、19世紀に勃興した新教育運動を実践して、教育目的としてはヘルバルトを批判したらしい。ヨーロッパで子どもが子どもになった時代である。日本では大正デモクラシーの時代であり、軍にとってはもっとも世間の風が冷たかったころであった。

 

長野にゆかりのある人物と云えば。板倉聖宣である。伊藤たちより少し年が下になるが、板倉が仮説実験事業を提唱した1963(昭和38)年に『構文別英文演習』(奥幸雄と共著、南雲堂)を出している。伊藤の「構文主義」というものがあるらしい。
要は、板倉は三浦つむから影響を受けたヘーゲリアンで、伊藤は大学時代に研究したスピノザ主義者らしい。どちらも一元的決定論者「矛盾」をキー概念に考える。ヘーゲルスピノザにあこがれたのであり、関係がある。

板倉は仮説実験事業を提唱した当時に「これまでの理科教育は、科学的な認識がいかにしてなり立つものであるのか、ということに関して全く不十分な理解の上に成り立っており、そのためにとんでもない考え違いに支配されていた。それは理科教育の実験についての考え方の中に、最も顕著に表れている[10]。」

仮説実験授業 - Wikipedia

敗戦の体験によって社会の科学を含めて本格的に科学を勉強する気になって勤勉になった。しかし、理科に納得のいかないことが多く自信が持てなかった[10]。 1947年に本郷中学校4年修了で旧制浦和高等学校に進学。

板倉聖宣 - Wikipedia

ヘーゲルスピノザから一元論や斉一的な法則性を支持する決定論を継承し、さらにフィヒテシェリングの二人から主体と客体の同一性を重視する立場に感化された。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル - Wikipedia

基本理論の交代が理論外の新事実の発見や他の理論の影響で引き起こされるという「機械論」も科学史の現実に合わないとした[46]。

理論は事実に合わせて変化するという「実証主義」を、「天動説は事実に合わせるという点では十分実証的だった。コペルニクス説がこの点で優れていたわけではない」として否定した

(同上)

神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである

バールーフ・デ・スピノザ - Wikipedia

その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、動植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザ無神論者として攻撃された。

(同上) 

代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。

 

(同上)

 

「工場製品」なのは、児童、生徒ではなく、おそらく「教師」の方であって、これは悪口ではなく、万事資源不足の終戦後に、小学校の復興と新たな希望を叶えるあっては教師の充足が目標とされただろうということであり、それは医療においてもそうであるし、道路においてもそうだったというのに過ぎない。

そのような「教師促成」の時代では「法」よりも「術」が重視されたのは想像しやすいのであって、それは発達段階の児童、生徒たちにとって必ずしも不適切ではなかったし、また、情報格差が当然であった時代背景のもと必ずしも不合理でもなかったと思う。

ただその「術」は現場からの運動によって常に改善の努力が払われてきたのであるが(世界に誇れる日本の授業研究。)、情報革命によって、岐路に立たされていると想像してよいと思う。
要は、根底にあるのは、情報格差であって(教師と児童、生徒との情報格差。中央と地方の情報格差)、純粋な意味での教授法ではない。

そして、情報革命によって明らかになったことは、情報格差はもはや個人間のリテラシーの問題に片づけられつつあるということであり、それこそ実は伊藤が(かつては、公立の教育機関の仮想敵であった)民間の教育事業者のもと実践してきたことであった。だからこそ伊藤語録にある『知らなかったから解けなかっただけ』という一見矛盾した言い方を生んだのだろうと思う次第である。伊藤はやはりマーケターであった。制度の変革者というのは言い過ぎである(誰かがそう言っていたというのではない)。

 

 スピノザイェリネックユダヤ人なのであった。