風と黄色いワンピース2

 

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伊藤博文が「古い」と評価した、アメリカの三権分立の理解の変遷について、美濃部から見てゆく。

行政法講義 第一巻 明治四十五年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション

ここで美濃部の理解の明確な特徴が出ているが、一種の法実証的な方向性、すなわち、

 

 モンテスキュー〈は〉こう主張した

 

という構成を採っている。実際は、

 

 モンテスキュー〈が〉こう主張した」とハミルトン〈は〉主張した

 

が正しいはずである。「学説」の挙証から主体が排除されてしまう問題があって、これは

  1. 権力の作用・反作用から理解する
  2. 権力の円滑な行使を「権力の作用・反作用から理解する」

という理解の違いを生む。1は、権力作用を効率性から説き、2は、実は、国権の確立を意義づけていたのだ。ここに、美濃部の「自由主義」的立脚点がある。

近世と比較すると、

「天下」とは徳川権力のメタファーだったのだが、それを「自然」と理解することで、彼らの主体的な行動が基礎づけられていた。

さて、美濃部にとって、「天皇主権」は自明な事であって、分析の対象ではなかった。

イェリネック国家法人説から天皇機関説を主張したのであるが、このとき、上杉慎吉は正統派の立場から天皇主権説を主張して美濃部を非難したこととなっている。
この「国家法人説」とは国家主権を唱えることであるが、国際法に関する、立・美濃部論争に於いて、美濃部は、主権は国際法上の概念であることを主張した。
立作太郎の以下の2点を含めた7点の主張について、まず美濃部が反論し、立の反論、美濃部の再反論、立の再反論と応酬を重ねた。

美濃部が以前発表した領土権に関する説明を修正する論文を明治44年の法学協会雑誌第29巻第2号から第4号にかけて発表した際、その際第4号において、立の「韓国併合国際法観」(同誌第28巻第11号)に示した見解を誤りであるとして反論したのである。

  • 国際法上の権利は国内法上の権利とは全く区別することを要す
  • 主権は国内法上の権力にして国際法上の権利に非ず

 

PP50-51,美濃部・立両博士論争の素描-国内法と国際法との関係 論について
(なお、一部抜粋であって、論点の②乃至④、及び⑦は省略)

以前は領土は国際法上の効果しか持たないとしていたのを、韓国を併合するにあたって、国内法にも当然に効果を持つと修正したのである。要は、以前は日本の独立を対外的に主張するだけで足りたが、もともと外国の領土であったところの権利関係の変化の効果を論じなければならなくなったのである。
このとき、立も美濃部も二元論に立っていた、と後世では評価されていて、しかし、上の比較を見ると、美濃部は、国家という統一主体を通じて、その行為の効果も同時に有効であるとの主張であるように見える。すなわち、主権とは、主体の自己支配の問題であるとの見解だ(主権と統治権の分別)。それに対して、立は、主権は純粋に、、、法的な問題であると反論しているように見える。

  • 領土権を以て人に対する命令権を含むと為すは統治権力唯一不可分にして且つ国家に固有なりとするの思想と相矛盾するものなり

美濃部の反論の当初の目的であった立の7点のうち、主張の第5点目で指摘する「人に対する」が肝であるようで、これが物権と統治権の関係を以て対立するのである。
立は、国際法と国内法を分けたうえで主権は国内法のイシューであり、領土権は「(国内法から独立した)国際法上の物権」と見做せるものであり、主権(即ち、国内法)から見た場合、物権ではなく支配領域を指すのに過ぎないと主張した。
これに対して、美濃部は、国際法と国内法を一個の(統一された)国家主体を通じて、領土は物権の目的物であるとしたが、統治権(被統治者への支配)を通じてどうも「色」を付けたようだ。
ケルゼンは国際法は事実であって、国内法のような理念体系でないと論じたが、美濃部はそれを統一的に論じる必要があったらしい。後に、ケルゼン批判も行う。
決欲、美濃部は彼個人の信念にしたがって、主流派と異なる、独特の主張をしたのだ。ここで問題なのは、美濃部の独特な「国家主権説」が天皇主権説と異なるものなのかである。反対になぜ、穂積、上杉らの天皇主権説こそが正統だったのか。
これは実のところ、実在論争であるだろうと思っている。
美濃部は素朴実在論の立場であって、純粋な独逸學派のような、抽象的な実在論(観念論)が採れなかったに違いない。上杉たちは、観念的なのだ。ケルゼンが、国際法は事実だ、と言ったときに、美濃部は国内法も同じく事実であると考えたのだろう。
すなわち、今なら、〈私〉という主体の不可侵性は、国が「在る」ことの事実として揺るがない、と言うところであり、天皇という存在の事実からは導かれないという主張である反対に天皇主権論とは、そんな風には考えていないのである(観念論であり、だから、上杉は、天皇と雖も云々と言えた。上杉には、あくまで、独逸學として、正統性と正当性の毀損が抽象概念の具体的な反映として論じられたのである。どうもこれはサロン的な会話への共感と関係して、留学するしない=サロンに加わる加わらない、が決定的に重要だったようである。美濃部は日本でのサロンを後継しただけであり、その「日本人サロン」に上杉もかつては加わっていたのであった。
とは言え、上杉による正義の「具体性」の参照点が、地方の末端の行政運営であったため、当初は普通選挙に反対の論陣を張っていた。ここらへんには動機の違いも認められる。後に撤回するのであるから、上杉もまた、美濃部とは別の現実論者であった。美濃部は、その出自から、幕藩体制の代替としての中央での混合政体を想像の限界だったのではないかと思う。天皇は、将軍に変わる存在であるが、一地方軍閥ではなく、彼ら学閥は、さしづめ旗本であるが、一家来ではない。そういった個別性からの脱却を通じて獲得する一般性であるから、海外へも容易に延長できる。そのもとに、庶民の経済活動の自由がある
そのような事実に従うならば「天皇機関説」であり、主権の絶対性とは相いれないことだったのである。それが一方での、統治権と主権を分別する理解へつながった。
しかし、これは戦後の国民主権を考えると奇妙であって、天皇を「機関」に置くということは、権力の源泉を認めることにほかならず、それをその作用から機能上捉えたとしても、「天皇主権説」の一類型に過ぎない。
これが昭和の多元論から戦後の「8月革命」という美濃部の弟子たちの説明を準備することとなった天皇主権説でありながら、天皇主権説でない面を強調した矛盾が、新たな局面を迎えたのである。美濃部の学閥支配が、後の軍閥支配の前哨戦であった所以である。
これが抽象的に捉えられなかった美濃部の限界であった。
むしろ、いっそのこと、北一輝のように無邪気に「国民主権」と言ってしまえばよかったのであるが、あまりに革新的で在り過ぎて、徐々に移り変わってゆく法的状況に対応して現実路線を貫く「大人」の:学閥支配を達成した美濃部には思いもよらなかったのであろう。
もちろん、近代天皇制とは、近代国家ありきで始まったことであるが、正統性を保持することを認めたのであれば、その経緯は消失し、それ自身の正統性として主張された論理的帰結が天皇主権説であるのに過ぎなかったのである事実からしか見られないと、この正統性の観念操作=理論操作が怪しくなるのであった天皇主権説に対抗し得たのは、当時であっても国民主権説であって、議会主権説を議会機関説と分けて考えるイギリス人がいるかどうかである。


幕藩体制に於いて、「「将軍」とは役割である」と謂うとき、幕藩体制の意義を語る必要を認めるか認めないかである。将軍の一日は、確かに、決済で終わるからだ。
そのような具体的な事実である。

徳川将軍の生活とは?起床・就寝時間や食事・仕事・趣味など1日のスケジュール紹介! | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

側用人や老中が気にするのは、決済を受けられるかどうかである。

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大久保忠隣 - Wikipedia

P58「11 大老は幕府の最高職だったというのはウソ」

側用人 - Wikipedia
老中 - Wikipedia
旗本 - Wikipedia

老中(譜代大名)は「総理大臣」とも言われるが、実は、側用人(旗本)が幕府をまわしていた、らしい。
明治維新とは何だったかを考えるうえで興味ぶかい。権力分立の歴史が政治参加にあったからである。


ここで行っているのは、もちろん、「戦後」の標準だった「リベラル史観」×「英雄史観」を離れて、英米の戦後の理解から戦前の歴史を見直す作業であるが

ヴィトゲンシュタインの理解が十分でないため、どこまでできるかは自信がない。
それでも、戦前を対象化する自由をようやく得たのだろうと思う。