要は、憲法学者ではない丸山が、憲法をよく知ることができずに、内的な意味の「国家主権」と外的な意味の「国家主権」を混濁して語ったがゆえに(憲法学者ならば理解できる。ドイツの政治的事情を絡めて。要は、ヒトラーは、その悪はさておき、ビスマルクの二番煎じに過ぎないのだ。)、いまだにおかしな議論じみたものが生み出されているのであった。

 

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憲法理解に関して丸山の説を「通説」にする必要が微塵もない。


天皇主権(美濃部の謂う、国家主権の「天皇主権」ではなく。)が一番わかりやすいのは、今の中国。共産党天皇を排斥しようとするのは、政治的ライバルと見做すから。ライバルは形容上「根」を同じくする。
つまり、共産主義国家は政党のみがそこにあって国家がないのかというと、そんなことはない。いち国家であり、その意味で、国家のうちに共産党を置く。しかし内的には、共産主義国家に於いては、共産党憲法の上位に位置付けられる。

他方、天皇主権は近代国家の契機であっても(つまり時間的に前方に位置しても)上位ではなく※、天皇はもちろん政党ではない。
天皇にまつわる神話が量産されるのは、「消失点」の関係。だから歴史的事実に照らして云々というのは、もちろん意味がないことではないけれど、分析的には無目的だろう。

※このとき、穂積は意味の読み替えを行い(上下から前後へ。)、「天皇の自己拘束説」を否定するのだけれど(反対に美濃部はそれを主張して、むしろ「国家の自己拘束」の陥穽に落ちる原因を作った。)、それは今の象徴天皇制に結構近いかもしれず、今の象徴天皇制は、天皇は個人として人権の享有主体であっても間接的に人権が実現されるほかないのは、帰属の問題であって、(今まで見た通りに、或る意味で国家の内部にありつつも)国家に支配/被支配の関係に置かれない、同時に「国家」と対等な法人としても観念されるからである。イギリス女王も議会主権を考えるにあっては、一法人の扱いであることを考えると、ひとり突拍子もない考え方ではない。少なくとも歴史的に醸成された考え方である。
天皇は、政治的意思決定が排除されているので、「(独任)機関」であるととらえるよりも、(「自然人」でありつつ)「法人」(の二面性を持つ)と考えた方が説得的である(もちろん、このとき、国家もいち法人である)。「法人」と謂うのは、意思決定に関して自然人を擬制する「法的な人」であるから、自然人と法人の二面性は再帰的で、意味がないかと言えば、主権の議論においては、そうではなく、他の法人と対等というシステムの要請する単位に関して特殊な地位のことである(反対に謂えば、「自然人」という議論の「窓」を排除する)。要は、「中2階」みたいな話で、対外的には、国家のうちにあって、国家という法人に対等なのは同じように国家である※。
※だから、国家法人説天皇主権説と排除的な関係にあるというのは誤解である。あくまで国家主権対天皇主権(かつ国民主権)であり、国家主権、天皇主権、国民主権のいずれにしても、国家法人説に属して、天皇主権と君主主権は同じではない。
機関よりも法人の方が存在規定に関して自由度が高いんだね。

穂積、上杉らの議論を見ていると、大陸の主権論争にあった人民主権/君主主権のフレームを参照はしていても共有を必ずしもしていないんだね。要は、彼らの理解の中では、ヨーロッパ大陸の君主主権と日本の天皇主権は異なっていたということ。だから、実態としての国民主権に近づいてゆく(君主主権でありかつ人民主権と謂うのは、ヨーロッパ大陸の議論では難しい※。せいぜい、5月3日憲法でどうだったか)。日本の天皇主権は現代風の「契機」のハナシであったから、国民主権と矛盾しない。それが誤解されるのは言葉を欧米から借りてくるほかなかったから。それが後発国の難しさでしょう?
まとめると、戦前は、「天皇」と「国民」は制度上響きあう関係で(これが天皇主権でありつつ実態として国民主権であったということ。要は、禅問答にある、右手と左手。)、間に「政府」乃至「議会」があった。戦後は、「国民」の単独行為なんだけれど(国民主権)、近代国家は統一した外部効果としての意思決定を持つことが必須ゆえに、それに仮想的に先立って(制度成立上は同時に)「統一感」を持つことが求められたときにそこに天皇の支援を求める関係。要は、主権に関しては、間接的な関係になった。

※だから、戦後も、アメリカ法を研究した芦辺でその努力が終わって、またぞろ大陸法の主権論争を起こした某とか某は、本当にどうかと思うよ。その無駄な努力が憲政を再び換骨奪胎したと思う。もっとその功罪を問うてよいと思うね。
ちなみに、美濃部が「無茶」できたのは、福沢らが居て、憲法の前に憲政が現前とあったから。その伝統と言えなくもないが、その「憲政」は(法的レジテマシーとしては)美濃部革命における憲政だからねぇ。
ややこしいな。

 

だから今の人たちが「解釈改憲!」と騒ぐことはすべて美濃部に対しても言えるよ。
だって、国家に不可避な、美濃部のソリューションがソレだもの(私は、日本国憲法下なら、国民主権を採用しているのであるから、結果はどうであれ、国民投票をすべきだと思う。嫌なら議会主権に憲法改正すりゃいいじゃねえか)。
それでも美濃部を信じるのかねぇ、というハナシであって。