「外で雨が降っており、かつ、わたしは外で雨が降っているとは思っていない」(ムーアのパラドックス)

 

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朝日新聞記者も寄稿している。 

 👆なども自信満々に講釈を垂れるが、別に句読点の打ち方に公理などはなく、近代語としての日本語の発展とともにあって、文法に沿っておおむね便宜的に用いられているにすぎない。
つまり、ここで言われていることも、経験者が語る「作文術」の指南書、それは社会技術に帰着するので結局は処世術に他ならない。

細合半斎の学半塾に入門し経学・詩文を学ぶ。また詩文結社混沌詩社に参加し、盟主片山北海・木村蒹葭堂・葛子琴ら大坂の文人との交流を深める。特に蒹葭堂宅に出入りし出版事業を手助けしながら、中国から舶載された当時最新の書籍に触れ知見を広める。篆刻に関する印譜や論考などを精力的に著すほかに、醒狂道人何必醇(すいきょうどうじん かひつじゅん)という戯号で出版した『豆腐百珍』・『豆腐百珍 続編』はベストセラーとなった。

曽谷学川 - Wikipedia

 祖谷学川と本田勝一の区別がつかない。

👇 『偉大なる術』。「術」もときに役に立つ

本書の出版はそれまで秘匿とされていた代数学の発展に重大な転換をもたらした。後にガリレオ・ガリレイは、この本を参考書に研究を進め、天文学の父と呼ばれるまでになった。

アルス・マグナ (カルダーノの著書) - Wikipedia

👇その原著。ラテン語がわからないが、ユークリッドの互除法で使われるような図で説明されている。ニュートンの「プリンキピア」も実はユークリッド幾何学を標準に書かれていたらしい。

http://www.filosofia.unimi.it/cardano/testi/operaomnia/vol_4_s_4.pdf

 

さて、荒木の①現実認識 ②ヒューマニズム ③民主主義 ④民族主義 であるが、
これがソ連の影響である理解して、ならばと探ってみたら、『スラヴ研究』 46号に寄稿された塩川氏(塩川伸明 - Wikipedia)の『ソ連言語政策史再考』に詳しい。言語(政策)は民族教育と結びついていた。そしてそれは変遷を経た。
日本でも、標準語から「中央語」(鈴木三重吉『小鳥の巣』)の変遷を経ただろうか。 はその業績が埋もれがちであるが「中央語」の発見はもっと着目されてよい。

それに対抗する増渕の『科学的』であり『最大公約数』であり『表現そのもの』とは、どのようにして対抗していたのだろう。

 『最大公約数』とは何だろう?

はて、ソ連的なのか、ドイツ的なのか、イギリス的なのか、フランス的なのか、アメリカ的なのか、中国的なのか、国文的なのか?さっぱりわからない。
と言う一方で、自分も幼いころに聞いた記憶があり、気にも留めないほどにごくふつうに会話に頻出していて、確か先生はルソーと言ってなかったかと思うが、どうだっただろう。
小学生の時分に「ルソー」なんて言われて、学研の漫画しか読んでいなかった私が『自然へかえれ』のヒトですかと答えたら、方向をみうしなったときにカタコトの英語で返答されたときの訪問客のような乗り気を見せてきたものだから窮したのだが、次に「何で自然にかえれないんでしょう?田舎のない都会のヒトなんですか」と質問したら、そっと蓋を閉じるようになかったことにされたことがある。 

なんか腹が立ったので、中学校に進学してからも覚えていて、入ってすぐ、身上調書ではないが、学習や学校への希望や期待についてアンケートを取られたときに、ルソーの自然へ還れとは。。と一席ぶったら「政治生徒」なのかと疑われかけたことがあった。
ちなみに、同級生で、生活調書ではないが、よく見るテレビ番組等生活に関するアンケートで、『』と書いて、「要注意生徒」とみなされかけたヒトもいた。それを聞いたときに、振り返って自己顕示欲の幼さに顔を赤らめたのだった。

 

 

ところがどうも自分の記憶違いで、或いは、誰かの勘違いで、ルソーは「最大公約数ではない」方を主張していたらしい。

初期の批判者として有名なのがバンジャマン・コンスタンとヘーゲルである。ヘーゲルは、ルソーが仮定した理想的な理性には何の根拠も無いと論じ、必然的にそれは恐怖による統治につながると論じた。コンスタンもまた、フランス革命の惨禍を受けてルソーを批判し、人民による一般意志に基づく政治決定(への服従)を拒絶した

一般意志 - Wikipedia

 その先生の中でいつ一般意志と最大公約数がアウフベーヘンしたのか知らないが、ルソーも「最大公約数」も両推しだったに違いない。要は、ええとこどりだが、それほどまで日本的に浸透していたのだろう。「現場力」である。さもありなん。

同様にルソーを批判したが、その上でバートランド・ラッセルは次のように警告した。「一般意志という思想は、投票箱を必要とせず、指導者に対する国民の不可解な帰属意識を可能にさせた」

 (同上)

自分などは「一般意志」は要は微分係数のことで彼らの批判した自由とは積分の探索程度のハナシであると当時の学問水準から思っていて(もちろん、ルソーは世界的な数学者ではなく社会思想家であってアイデアに影響を受けたか自然と似たような発想を持ったかではないか。ルソー1712-1778はニュートン1643-1727、ライプニッツ1646-1716より後のヒトと言ってように思うがおそらくその名声の渦中にあり、それを飛躍的に発展させたオイラー1707-1783とほぼ同時期のヒトで、成熟させたコーシー1789-1857、リーマン1826-1866、ワイエルシュトラウス1815-1897らはルソーより後の人たちであって、ともにフランス人であるルベーグ1875-1941、シュヴァルツ1915-2002などは言うに及ばない。)一種の「機械論」であると思う。また意志を生み出す内在的な傾向のことだろうと思う(傾向であって効果への近似ではない)。
どう見ても本質論なのだが、なぜこれが実存を喧伝した共産主義者たちを生んだか、よくわからない。もとよりただの便宜主義だからだろう。何か言えればいいのだ。

👇モンテカルロ法的ではない

要は👇のようなイメージである。 

でもそれはやはり「(人間)機械論」であって、それは家族形成の議論に現れる。
ルソーは、フランスの根深い問題であった孤児の発生に関して、家族の形成を支持してそのその合理的な判断の限界を以て社会における養育人口の限界とみなす議論を展開した。要は、「(家族)生産効率論」である。「(人間)機械論」と「(家族)生産効率論」は近代の合理的な社会形成(乃至国家形成)の出発点であったことは注目されてよい。

👇そこらへんについては、現代日本家族法理解に新風を吹き込む、新進気鋭のこの方が詳しい。

prtimes.jp

ラッセルがいて、ムーアがいたのだが、彼らの学問的業績と増淵の授業が直接つながっているような印象は受けない。 
まさか、関係ないだろうが、プリンキピア・マティマティカは第4巻に幾何学を予定していたらしい。

 フォン・ノイマンは『これで終わりだ』とつぶやいたらしい。

直観主義(intuitionism)とは、直観という能力によって何が善かを把握できるという立場。善についての判断は善についての事実判断であり、認知主義の一種である。

理想主義的功利主義とは、帰結主義の一種ではあるが、それまでの功利主義のように快楽を最大にするのを目的にするのではなく、直観によって善であると把握されるさまざまなものを行為の目標とする立場。

ジョージ・エドワード・ムーア - Wikipedia

増淵は矛盾には興味 なさそうであるし 、 

 「善い」を経験できるような対象(たとえば「進化を促進する」)と同一視するのが自然主義的倫理、「善い」を形而上学的対象(たとえば「神が命じている」)と同一視するのが形而上学的倫理である。 この二つの立場が共通しておかしているのが自然主義的誤謬である(『倫理学原理』p.39)。

自然主義的誤謬 - Wikipedia

ムーアにはどう考えても近づきそうにない。

自然主義的誤謬の概念を武器に、ムーアはスペンサーの進化倫理学ジョン・スチュアート・ミル功利主義(以上は自然主義的倫理の例)カントの倫理学(これは形而上学的倫理の例)などを批判する。 ムーア自身の立場は、「善い」は直観によってのみ捉えることができる性質である、という直観主義であった。

(同上)

これなどは興味深くて、中島自身は、あえてどちらかと言えば、ムーアに近かったのではないかと思う。その場合、『山月記』は、詩を直観的に把握するための道程を示したーすなわち、予断を廃するために、あえて『信じられない語り手』を通じて所与の解釈を無内容に帰した、と言えるのではないだろうか。ここに詩が生まれる必然はある。しかし解釈は与えられない。ムーアは云った。

 言語哲学においてはムーアは「ムーアのパラドックス」で知られる。ムーアのパラドックスとは、「外で雨が降っており、かつ、わたしは外で雨が降っているとは思っていない」というタイプの言明が非常に馬鹿げているというものである。

(ジョージ・エドワード・ムーア - Wikipedia

 虎の嘆きはまさにその馬鹿馬鹿しさにあったと考えると楽しくなるではないか。

 

 

増渕は ①現実認識に対しては実証的な記述認識(反教条主義)を ②ヒューマニズムに対しては合理主義(反「流出」主義)を ③民主主義に対しては自由主義ロマン主義)を ④民族主義に対しては表現主義(反制限主義)を採っていたのではないだろうか。要は、旧制高校的な教養主義がエリートに期待した個人象を下敷きに、しかし、新しいエリート像として提示する必要を感じたのではないかと思う。だから、多分に、ナルシスティックなのだ。論理的ではない。
彼の謂った『科学的』とは反「目的論」で、『最大公約数』とは反「一般意志」で、『表現そのもの』とは反「実存」だったのではないだろうか。しかし、(原理に即して機械的、公平というより)便宜によって選択して、主張的で、(自己)目的的であった。そういった意味で「英雄的」であり、自己に向かって肯定的な「司馬史観」はその演芸版と言えるだろうか。
どちらにしたところで、思想はどうにも経験的で、対比できるとは言えその際視点を持たざるを得ない。それほど違ったことを言っているとは思えなくなってくるのだ。そのときはそう言いたかったのだろうなぁと思えて来る。「実存」なんてあまりに多様でそう言いたかった切実さしか伝わってこない。だからと言って反対の立場にパッションがないワケではなく、そうなると、ロジックというよりも、リリックである。
人間性の欠如』などはあまりに突拍子もなくて、その語感がつかみにくい(今ではそれを明言するのは難しいのではないだろうか)。しかし、それを違和感なくやってしまう当時の雰囲気があったのだ。

マルクス以前の学者によれば、人間の共同生活というのは愛を中核としてなしていたのに対し、マルクスは労働や生産が共同生活の中核をなしているという事が異なっているところである。

類的存在 - Wikipedia

「愛」にしろ「英雄」にしろ、批判対象はひとつである。しかしだからこそ、増淵への理解はそれから為されるのだろう。
増淵と荒木の議論は「類的存在」をめぐるものであっただろう。 

 

ところで、増渕は帝大の国文科で伊藤仁斎荻生徂徠でも研究していたのだろうか? 

 1907年生まれの方々

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