「あるか」ではなく「どのようにしてあるか」。「ないか」ではなく「どのようにしてないか」

これは不毛で、以前、「正しい『自由主義』」或るいは「正しい『保守主義』」みたいな話が浮上したことがあったけれど、それはけっきょく形容矛盾だっただろうと思う。
今話題になっているのも一方で「正しい『共産主義』」になっていて、同じだろうと思う。

ひとつの考え方として、文系のこういった考え方は「経験主義」に過ぎないのであって、理系の学問のような「科学主義」ではないから、始原乃至萌芽と影響を経緯に照らして問うしかないとすることだろう。人口を膾炙した考え方の広がりであって、それ自体が「存在」であることとして普遍的にそれを名指しすることがそもそもできないということだ。

具体的には

カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスフェルディナント・ラッサールとともに、ドイツにおける社会主義の祖とされている。

モーゼス・ヘス - Wikipedia

この人は社会主義者なの?共産主義者なの?となる。なぜ、これに意味があるかというと、この人を辿ると、社会民主主義社民主義)に行くからだ。そうすると、社会民主主義共産主義なの?と問えることになる。 

だから、山本さんのように、「共産主義国家」乃至「社会主義共産主義)を掲げる憲法を持つ国家」、「民主集中制(政体)国家」、と「国家」 の枠組みを当て嵌めて比較検討するのは、より実践的であって好ましく感じる。
一方の全体主義も、「全体主義国家」、「全体主義体制(政体)」と同様である。


【参考】

「ただしい『存在』」
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia 
👇「負エネルギー」は存在なのか?

ディラックは、真空がロバ電子で満たされており

反物質 - Wikipedia

 👇どう考えればよいか
人間原理 - Wikipedia
そうすると、ライプニッツの提言を「神義論」とするなら、いかにして「ない」かを問う「逆神義論」を呼び込むことになるか。

 

認識上の実践としては、文献上にどの程度それらしき考え方を表す言葉が現れ、支配的になったかしか問われないだろうと思う。 

だから、私は加藤陽子を評価し、(名前忘れた)を評価しない。


共産主義国家で言うならば、ソ連支配下にあった諸国とそうでない諸国に分けるのがわかりやすいだろうか?例えば、キューバ、中国、サダム・フセイン時代のイラクなどだろうか。ベトナム、インド、バングラデシュはどうだろう?

憲法は、インド連邦が、主権を有する社会主義の世俗的民主共和国であり、市民に司法と法の下の平等と自由が保障されていることを宣言し、市民に友愛(fraternity)を奨励している。「社会主義」「世俗」「保全(integnity) 」という語は、1976年の改正で定義に付け加えられた[6]。インドでは、1月26日の憲法施行の日を「共和国の日」として祝う

インド憲法 - Wikipedia

ここで謂う「社会主義」とは?
👇各政党の謳う「社会主義」 

5.01 2012年2月25日にアクセスしたインド政府のウェブサイトには、インド憲法は1949 年11月26日に採択され、1950年1月26日に施行されたと記されている。憲法前文は、 インド国を以下のように定義している。
(略)
5.02 インド憲法基本的人権の項目(第3部第12条から35条)は、次の項目を含む国民の INDIA 30 MARCH 2012 30 日本語訳は,法務省入国管理局による仮訳である。 権利を規定している。

 

インド出身国情報(COI)レポートP29

インド 出身国情報(COI) レポート
出身国情報サービス
2012 年 3 月 30 日
法務省入国管理国

インドの影響を受けたバングラデシュ憲法など。

各国憲法概要 (1)
西 修
駒澤法学(5)-1 PP106[47]-80[73]/2005-11

 

それでは、イスラエルキブツにおける共同生活は「共産主義」だろうか?

sekai-ju.com