党派性の違い

 

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増淵が『山月記』の授業報告をする気になった直接の理由は、荒木繁の報告を受けて危機感を募らせたからということらしい。
増淵の言っていることは、一見、奇妙なことばかりなので※、理解に苦しむが、そういうところから理解を進めてよいのかもしれない。

※例えば、増淵は『公約数となるものが考え出されてよい。たとえ常識的なものであっても,科学的に検討された基本的な文学の取扱い方を,学習指導に取入れるようにしたいものである。』というが、『公約数』と『科学(的)』は異なる概念である。「科学的」とはおそらく体系と原理に照らして、世界に対象を見つけられることにあると思うが(ここで、板倉は、プトレマイオスを例に出して、原理と事実の適合からだけでは科学を説明できないし、三浦つとむヘーゲル理解に基づく「矛盾」を援用した。要は、体系内の「矛盾」である。)、言語理解については、非『公約数』的であることであって、ここでは、原理からの演繹性が、対象からの帰納性に対立する。科学は『公約数』的ではなく普遍的なのだ。公約数はもとより原理の効果(定理)である。

これが真に大事なのは、往々にして言語理解が『公約数』に偏るからで、それを打破しようとしたのが、伊藤和夫だった。

そういった意味で、ともに『科学(的)』を標榜するが、増淵は伊藤の批判対象ともなりうる。しかし、一方で、『表現それ自体』に着目し、具体的には『文体や語句・語法,表現の特質・効果の緻密な分析』を行うことらしい。これはおそらく何かしらの理論的裏付けがあるのだろうけれど、それについては知らない。そのかわり、『山月記』の読解については知っている。増淵の主張がどうであれ、それが非論理的であることだ。

そうすると若干の手掛かりがつかめる。
ヒューマニズムである。 

ヒューム思想の立場は「反ヒューマニズム」と端的に規定できる。

ヴォリンガーの芸術観を受けて、ルネサンス以後20世紀初頭までは、個人の生命的な全欲求を終局的な善と見る思想が支配していたが、そのような思想は暫定的なもので、必ずしも永遠に続かない、個我全能・人間性の肯定・生命力の肯定の思想は終末を迎えている、とヒュームは考えた。例えば将来に到来する芸術は、古典ギリシアを模範とする「生命的」「有機的」な性格を持たず、それとは対照的な「幾何学的」な性格を持つはずである。

トーマス・アーネスト・ヒューム - Wikipedia

ここで伊藤和夫との共通項『幾何学的』が発見できた。伊藤は、内在制約が言語理解の本質であることを説いたが、増淵はどうだろう?

政治の分野においても、ヒュームは個人の生命を超えた価値に重きをおいたために、第一次世界大戦への参加を正当化し、反戦を説くバートランド・ラッセルと論争を行うことになる。「生命尊重」の合理主義や打算に、彼は「英雄的」で「非合理的な」倫理を対置する。そのファシズムへの親近性は、フランスのジョルジュ・ソレルやイタリアのジェンティーレと並べることができ、ハイデッガーの反ヒューマニズム論や反論理主義の先駆としてヒュームを評価することは可能である。

(同上)

増淵は(少なくとも、バートランド・ラッセルから見れば)「反論理的」と言ってよいのではないかと思う。彼が「論理的」と考えているとすれば「主張的」或いは「目的的」の誤りである。これは大事な観点で「英雄的」と結びつきやすいからだ。 

ハイデッガーはこの学位論文において、判断は「論理学の細胞」で、「論理学の根源要素」であるとし、ヴィルヘルム・ヴント、ハインリッヒ・マイヤー、フランツ・ブレンターノ、人格主義倫理学者テオドール・リップス(Theodor Lipps)などは心理主義であるとして批判的に分析した。

マルティン・ハイデッガー - Wikipedia

ヴェルツェルは、1931年の論文『因果関係と行為』において、意味に満ちた生活世界に実存する人間の行為の存在構造からみれば、あらかじめ目標を実現するため手段を選択し、選択された手段を目標実現に向けて支配・操作する目的的意思にこそ人間行為の本質があるので、目的的意思は、目的を実現するための手段である行為の本質的要素であり分離できないものであるとして目的的行為論を提唱

ハンス・ヴェルツェル - Wikipedia

なお、新ヘーゲル主義は第二次世界大戦の敗戦により敗北に終わったとされているが、団藤重光(最高裁判所裁判官)、福田平、山口厚最高裁判所裁判官司法試験委員会委員長)など法学者らにより、戦後も目的的行為論(結果無価値・行為無価値)が論じられている。

(同上)

ここで、戦後の法学徒の社会に君臨した団藤が出て来る。
さて、新ヘーゲル主義であるが、

新カント派は、当時西欧を席巻しつつあった無規範な科学的思惟に対抗した。特にマルクス主義は、精神や文化を物質の因果律により支配されるものとしていたため、人間もまた因果律に支配された機械とみなそうとしていると危惧し、彼らを批判して、カントに習い先験的道徳律の樹立と、精神と文化の価値の復権を試み、因果律に支配される「存在」の世界から「当為」の領域を確立しようとしたのだった。

新カント派 - Wikipedia

 を踏まえて

新カント派の運動は、かつてカントの哲学からヘーゲルに至る観念論哲学が展開されたのと同じように、次第にヘーゲル哲学にも目を向けるように促していった

新ヘーゲル主義 - Wikipedia

どうもここらへんじゃないかと思う。なぜ、国文科卒で、こうなるのかはよくわからないが、そうすると、「矛盾」した増淵の考えから、以下の2点の疑問へ分岐する。

①戦前の「論理(教育)」から何を引き継ぎ、何を克服しようとたか
②戦後の「国語(教育)」の何と対峙したか 

www.jstage.jst.go.jp

さて、荒木であるが、増淵から見れば「生活学習への偏重」が見て取れ、荒木自身の主張から言えば「民族教育」となる。この「民族」とは「大韓民国憲法(第六共和制憲法レーニン主義憲法)」で見ることができるが、実はソ連の影響である。 「民族自決」の「民族」である。そこから考えると、荒木が、

 ①現実認識 ②ヒューマニズム ③民主主義 ④民族主義

と並べる理由がうかがい知れる。
荒木の1950年と言えば👇で近松の校注をしたらしい。なるほど、これは「鑑賞」が先に来るだろうと思う。

 

荒木 繁(あらき しげる、1922年 - )は、国文学者、和光大学名誉教授。 茨城県生まれ。1947年東北帝国大学法文学部国文科卒。同大学副手。東京都立西高等学校教諭

荒木繁 - Wikipedia

和光学園とはどういうところか。『もっとも和光生らしい和光生』(下掲note2)に語っていただくことにする。
入る前。

通っていた国語専門の塾の先生に相談したところ、多様性を尊重する教育で名高い私立和光中学校を勧められたのだ。

小山田圭吾と和光学園のインクルーシブ教育 1|藤井大地|note

入るとき。 

僕にとってはこの塾で国語の学力が飛躍的に向上(学校のテストで70点が精いっぱいだったのが100点が当たり前になり、小6の時点で都立高校入試問題を解いて満点をとれるまでになった)したので、恩師である。

(同上)

入った後。

和光学園は共同教育だけでなく、平和や民主主義ということも強調する。一般的に「左翼的」な学校ともいわれている。実際に日本共産党の党学校に近い、という印象すら受ける。当時の園長の丸木正臣氏はしんぶん赤旗の常連で、日本共産党の候補者の応援コメントも常連であるし、高校には民青高校班がある。卒業生には日本共産党の専従や、しんぶん赤旗の編集になる人も多い。

小山田圭吾と和光学園のインクルーシブ教育2|藤井大地|note

ひとやすみ