僕は、芥川の『羅生門』で似たようなことをやろうとしたことがある。
芥川は夏目の志向した「科学性(合理性)」とは別の「科学性(合理性)」を持っていたと思うんだよな。その企図は破れたわけだけれど、道具立てが当時はつたなかった。

もしかしたら、イギリスの社会進化とフランスの(コンドルセの始めた)社会科学に一番影響を受けた作家かもしれないよな。文学者は文学者(というヒト)の影響に関心を持つが。

芥川には「頭が良い」という印象しかない。こんなことを感じる作家はほかにいない。
理系の作家はいっぱいいるけれど、「科学」に(実は反対から)一番肉薄したのは、芥川(やその師匠の夏目)なんじゃないかな?
だから、イマイチ、理解されづらい印象を受ける。

慰安婦問題に関して言えば、そういった「柱」を持つことの重要性はどれだけ強調してもよいのは、まさにそこから「自由意志」と「正義」の関心へ移れるからだ。
小学校の「論理国語」において、きわめて簡単なレベルで、ゲーム理論の道具立てを準備してもよいくらいだけれどね。国語は本当は道徳(社会倫理)も含んでいるから、論理的に読む必要があるんだよね。

いつも言うけれど、倫理は論理の母、論理は倫理の子。