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どうも『送り火』は評価が難しいらしい。
「表現が的確」という選評は、文理(文法)からはおかしいと思う。
では何が的確なのだろう。サスペンスの手法はどうか。
👇凄惨を極める暴力とそれにおけるゲームの効果
👇メタボロにも、祭りは出てくる。
「いじめ」をロールプレイングで学ぶということが学校で行われていて、その中に興味深いものがあった。いじめの娯楽性と演劇性(聴衆を用意して、聴衆にウケることが嬉しいことだと自覚させる。)を自覚させる手法で、いじめも報酬系を為すと考えると、いじめのゲーム性を理解できる。
そうすると、『夷狄を待ちながら』の主人公である老人の欲望に近づくのである。彼も報酬を必要としていたとのことである。
ノーベル文学賞を読む ガルシア=マルケスからカズオ・イシグロまで (角川選書)
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👆によると、というか、👆についてネットで紹介されていたところによると、クッツェーの『夷狄を待ちながら』はポストコロニアルの小説ということになるらしい。ポストコロニアルならば、排除したはずの「悪」の、逃れようにも逃れられない、残滓が問題と成る。「語れない」からである。
ところで、自らを「語れない」ということであれば。
桐島は語られる一方である。語られる一方ということでは、芥川の『藪の中』も語られる一方だったが、朝井は規範性を持ち込んだことが新しかったのかもしれない(芥川は存在論でー存在の重なりがトリックを生むー、朝井は認識論と言えるだろうか)。
『送り火』の評価とは。
結局、大いなる野心を持って挑戦して、或る意味では成功しているが、文理がおかしいために、伝わりきっていないということにならないだろうか。