またも望まない大作となってしまって、サワリさえも終わっていない。
今回の作品の白眉はこれだな(自画自賛)。

 

『こそ』を文理的に理解すると、本来立法経緯を為す事実であって立法内容を為さないはずの或る事実が、そう表現されていると解釈をもたらすのである。すなわち、『こそ』にはそこに在るべき内実が含意されると理解することである。それは経緯そのものであるから、それが表現されている判示をcallする。論理上の可能態の文理上の当為態への変更、解釈改憲解釈改憲の先取り)である。それが(解釈)改憲で実定されるのか。なんとファンタジックな文構造を文理解釈はもたらすのか。
だから、『こそ』が、改憲を巡ってとりあげられるのか。
わかるだろうか?
aspect(voice)がaspect(call)に転化しているのである。

 

これが出たからよいとするか。

本当は、当初の構想では、文理解釈/論理解釈を云々したうえで、憲法第24条に於いて、一般的人権規定/「公共の福祉論」をもたらす規約規定がどう解釈に本質的にかかわっているかを云々したかったが、まさか「フィヒテの『し』」がそこにあると思ってなかった。

今回わかったたのは、「文理解釈」とは、政治的効果を与える表現だということ。
だから、やたら、騒々しくなるのか。
なら、文理解釈なんてやめれば済むだけなのに。
それをやめられないのはそこに利益を期待するからだろうね。
それをトートロジーと謂うと思うけれど。
だから講釈家がいっぱい出てくるのか。 

なるほどそういうことか。初めて納得した。
なんでこんなにうるせえんだろうと思っていた。

 

 季節の変わり目なので、夏仕舞いと秋仕様のために

 と、今年の我が家の目玉商品 

を準備し、その前に、街中のドライクリーニングでせっせとニトリの夏の冷感シーツを80度の熱風乾燥しているのであるが、どうにも捗々しくない。カーテンまで進まない(ちなみに、浴槽で60度の熱湯処理も併せて行っている)。

 

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季節の変わり目のせいか、コーヒーによるカフェインの取りすぎのせいか、体が重い。

掃除が進まない。