敬称略

勉強のために、ただいま、購入いたしました。

 本が増えるの嫌だなぁと思っていたけれど、kindleだから、関係なかった。

 

というわけで鵜読み始めた。

金払ったのにエキセントリックだったら、嫌だなぁと思ったが。

面白い。

能川から読み始めているが、『3歳児神話』が出て来る。これが「戦後」に生まれたと喝破する。

よくわかる。

なんでかというと、私の両親が、戦後最初の「核家族世代」だから。
核家族」において、「共働き」とともに、「ワンオペ」が始まるからだ。

「ワンオペ」って、大家族を否定するところから始まるんだね。
なんでかというと、それが「夢に満ちていた新生活」だったからだね。
都会化とともにあったんだよ。それ以上のcivilizationの語感がぴったりだと思う。

その中で、育児教則として、いろいろあったんだね。
勉強するわけだ。講習会かなんか1回通ったんだっけ?
当時は青年団も盛んだったし、だからと言って、都会に来て青年学級に通うわけでもなし。なんかカルチャースクールって言っていたと思うけれど、よく覚えていない。
幼保の開催するものではなかったと思う。名古屋のビルの1室って言ってなかったかな。

青年学級とは - コトバンク

まぁ、要は、「科学的」教育を実践したわけだ。その信ぴょう性が蒸発したけれど。
ただ、父親は、毎日11時帰りで新婚時代、びっくりして怒りまくったって言ってたね。本当に働いていたみたいだけれど。。。結婚前が酷かったからね。給料3日しか続かない、飲んじゃって。給料をちゃんと家に入れていたってことは、飲んでないってことで、後から納得したみたいだけれど。
別に出世コースじゃないよ。
そういうこともちゃんと言って欲しいなぁと思う。

 

ただ私が特に「3歳児神話」に注目するのは、それが「戦後語られた「3歳児神話」」だからだ。ちっとも保守的でないのに、「保守的」と呼ばれる理由だ。
このあいだの呉座の民事事件があって(和解済み)、彼はエリート観を披露したらしいのだけれど、確かにそれに言及して違和感のない経歴ーすなわち、戦前から続く、名門校を卒業ーを持っているが、実は彼の「エリート観」は戦後形成された神話ではないのか、となんとなく思っていたからだ。ここでの「戦前から続く」は惹句であって、本質的でないように思えた。

その惹句としての(呼び出される)「保守」性が共通しているように思えた。

呉座はさておき、彼らの家族観には、戦後の特殊事情が本音であるにもかかわらず、呼び出された「戦前」が付着してあって、その「戦前」がこれまた「リベラル」っぽいのだ。
すなわち、ルソーである。
渡部政盛のルソーである。大正デモクラシーには、どうにも、フランスが見え隠れする。与謝野晶子もフランスの から理解した方が早い。
そのルソーは中間団体としての近代家族を社会効率から見直した。
そこで個人はどのような存在(主体)として扱われただろう。

井上毅の言った 『しらす』は論理的示唆であり、『うしはく』は論理包含であるだろうそして井上の『仁』は本質的には隣人愛である
井上毅はフランス留学後、独逸学派(歴史学派)に転じたが、これが穂積の伝記と重なって如何にも怪しい。
彼はロマニステン - Wikipediaだったのか、ゲルマニステン - Wikipediaだったのか。

サヴィニーは、法を言語と同じ様に民族共通の確信である「民族精神」(Volksgeist)の発露として捉え、民族の歴史とともに自ずから発展するものであるとして、フランス法流の自然法概念を否定したのである。ところが、彼は、法典論争において、フランス民法典を廃棄して、ゲルマン的な中世ローマ法を復活させるべきとか、統一的なゲルマン法典を制定すべきとの意見に与しない。そうして彼は、ゲルマン民族の全盛を築き上げたと考える神聖ローマ帝国概念を重視した。

歴史法学 - Wikipedia

このとき、『神聖ローマ帝国』を 

オッカムのウィリアムの『論理学大全』で推断の理論の完全に発達した姿がみられる。そこでオッカムは「質量的な」推断と「形式的な」推断とを区別しているが、これは大まかに言ってそれぞれ現代の論理包含と論理的示唆と同等である。

論理学の歴史 - Wikipedia

に見たのではないのか。
しかし、ここで疑問が残る。つまり、井上はイギリスに行ったのだったか。
井上はオッカム派だが、ルター派ではなくそこから分岐したツヴィングリ派だったようだ。カルヴァン派である。つまり、ここにサヴィニーやグリムの影響がある。

フィリップ大学マールブルク - Wikipedia
フルドリッヒ・ツヴィングリ - Wikipedia
共在説 - Wikipedia
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/4427/1/30-2-1B-01.pdf

井上は日本古来を本質と見たのか。
あくまで歴史法学ありきで歴史法学に見合う歴史的事実を探したに過ぎない。
それがなぜかはよくわからないが、彼はスタンドプレーをよくしたようで、伊藤からも遠ざけられる。
ともかく、彼が言ったことは原理的な日本主義ではなく、発展型としての歴史法学だ。
その結果が、非宗教的な動員機序における述語の「しらす」であり、そのような法とイコールな国語だったらしい。
つまり、多くの者が誤解しているのとは異なり、 

彼の国語の本質は『大論理学』にあり、『大論理学』の内容を日本語で書かれた文献に探すことにある。 

同時に国王は自由主義派のガス抜きのために自由主義的な内容を含む欽定憲法(ドイツ語版)を発布し、この憲法によって議会が設立されることになった。

プロイセン王国 - Wikipedia

エスレルが反ビスマルクであることは分かっており、歴史学派の立憲論者だった。
ゲルマニステンが民族的、ロマニステンが普遍的を志向するが、憲法制定を目指したのは、自由主義的なゲルマニステンだ。井上はプロイセン憲法が懐柔する自由を許容するロマニステンというところだろう。立憲的であり、歴史法学のロジック内での表現主義としての日本主義者、その実ロマニステン的普遍主義者である。ただしロジシャンである
井上もまだよく理解されていないようだ。 

立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」「宗教、哲学、政治、学問とは関わりない中立的な内容で記す」ことを前提として、宗教色など世俗性を排することを企図して原案を作成した

教育勅語/井上毅-Wikipedia

教育勅語は、彼の発見したオッカム流論理的示唆と論理的抱合以外は、とくに井上が言うほどのこともない社会道徳で(だから、井上も一回は固辞した?たまたま井上が朱子学に通じていたからだろう。ただ朱子学だと外来の学問であるから、ぼやっとしたものになったのではないか。彼の歴史法学的な発展観から言うと、それが本願ではなかっただろう)、そこに人間観が見られない。彼もまた言語偏執だったのだろう。

そうすると、保守派の「人間観」の元祖は本当は誰なのだろう?