「したがって」が死ぬまで

 

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ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842年3月18日 - 1898年9月9日)は、アルチュール・ランボーと並ぶ19世紀フランス象徴派の代表的詩人。』(ステファヌ・マラルメWikipwdia)
法学と文学は同時に動き出していたらしい。

ここには精神の音楽と、顕在的潜在的な響きが織りなす音楽、用語の喚起と反覆の探索の果てに到達した思想がある。本を閉じ、蝋燭を消し、孤立した峻厳な姿勢でイジチュールは生涯を終える。無も去り、純潔の「城」が残る。厳密すぎる散文で書かれた未完の狂気の物語。 

 👇は『いくら無意識の領域や言語学的なアプローチを行っても、これは軌を逸している。もう少し現象学的なアプローチも必要なのではないか。』(JDaniels 5つ星のうち2.0 難解な詩に難解な論述 2002年1月2日に日本でレビュー済み)とアマゾンレビューで評価を受けているが、どうだろう? 

 

「従って」は、われわれのあらゆる認識、文化、ひいては科学を形成する根幹の装置であるが、ここに爆薬を仕掛けた危険きわまりない詩人がマラルメであった。「従って」をラテン語ではIGITURという。フランス語読みすれば「イジチュール」となる。この主人公イジチュール「従って」君は、世界が理由と根拠によって隈無く組織化されたことを感じ、それに閉塞している。偶然はどこにあるのか? 現実界(le REEL) は、ついにわれわれに偶然の出来事を通じて援助の手をさしのべてくれるのか? 今夜、深夜ゼロ時の時間を告げる鐘とともにその真実が明かされよう・・・ 

詩・イジチュール  (本は脳を育てる~北大教職員による新入生への推薦図書~)

 北大は何をしとるのかね。。と言いたいが、

マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「偶然」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。

ステファヌ・マラルメ - Wikipedia

 『北大職員による』がマレルメを「革命理論」にすることを指示していて興味深い。

1866年、その「作品」の重要な位置を担うはずの『エロディヤード』(古序曲)を書き進めていくうちに「形而上学的危機」(友人に宛てた手紙の中で「幸いにも私は完全に死んだ」との文言を書き記すが、これがモーリス・ブランショの思索に強く影響を与える)と呼ばれる精神状態をもたらす。この世の一切が虚無であることに遭遇し、キリスト教における神の死を悟り、ロゴスとコギトが解体され、存在の根拠を失う。しかし詩の根源的なあり方へとその思索と魂の探求を深めていくなかで、詩人は「美」Beauを発見し、それを詩と宇宙の中心原理とする

ステファヌ・マラルメ - Wikipedia

赤字強調は引用者。
あれ?どこかで聞いたようなハナシだ。

 👇マレルメと良経を比較しながら、(萩原朔太郎と)中島敦への影響も考察している。

note.com

このエッセイはすごく興味深くて、良経の歌の解釈をめぐる塚田と中島の議論が、増淵と荒木の議論の前哨戦のように思えて来る。 

同じ歌を秀歌として取り上げても、塚本の眼に映るのは中島敦の言うような自然主義的、写生尊重の歌人の姿ではなく、あくまで繊細な技巧を駆使して読者を夢幻境へと誘う「詩人」の姿である。
 そのとき塚本の批評の支えとなったのがやはり一首ごとの音楽性の分析であった。 

(上掲 note)

よくわからない。塚本とはどのような人であったか。

多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。歌集の全冊数は80冊を越える。だが、邦雄の文学業績で軸となったのは、岡井隆寺山修司とともに1960年代の前衛短歌運動を成功させたことである。

塚本邦雄 - Wikipedia

 斎藤茂吉が出てくるのだが、

 子規の短歌論を信奉し『アララギ』に拠った歌人たちをアララギ派と称する。写実的、生活密着的歌風を特徴とし、近代的な人間の深層心理に迫り、知性的で分析的な解釈をしている。

アララギ - Wikipedia

子規に遡って『写実的』『生活密着的』をマルクス主義と結びつけて考えると錯綜して収集がつかなくなるような気がする。マルクス主義の前に『生活』はあった(イェーリングなど、それ以前にも)。

 

アマゾンレビューに会った現象学であるが、これがまた、よくわからない。
どうしたものか。
フッサール現象学を思いつく前には心理学を梯子に利用としていたらしい。 

『数学の現象学』精読Ⅱ
A Commentaryon“SuugakunoGenshougaku
(PhenomenologyofMathematics)”II
竹山 理
OsamuTakeyama

心理学の立場から数学の特に算術の解明を目指した『算術の哲学――心理学的、論理学的諸研究』を1891年に出版した

現象学 - Wikipedia

フッサールはそれを『心理学的』に研究したが、そうではなく発達心理学的な問題じゃなかったかな?所謂「数覚」のようなことはいつ獲得されるのか。それで「数学(全体)」を解明するのは、フレーゲの謂う通りだろう。

つまり、数学には、「発達心理学的な獲得」と「実証的な獲得」と、或いは「直観的な獲得」と、もうひとつ、「系統的(歴史的)な獲得」があると思う。
最後はなんのことはない、数学史のことである。そこにもオースチンの「法理学的な獲得」(在る法)と「科学的な獲得」(在るべき法)があって、足立先生は前者の立場であるようが気がするが、どうなのだろう?

フッサールの『心理学的』な言及は或いはフレーゲに後者の立場に近づくような印象を与えたのではないか。「系統的(歴史的)な獲得」は獲得過程のハナシであって、数学そのもののハナシではないことはあらためて言うまでもない(なぜか、それを混同したがる人が多い。現代人が最初から現代人でないように、人は生まれたときから成人ではない。しかし、人は、あたかも最初からそうだったように錯覚しながら、知覚を獲得してゆくのに過ぎない。)。
そういった意味で、前回の、フランクル憲法とフランクフルト国民会議ドイツ統一の方向性を争ったゲルマニステンとロマニステンの議論を思い出す。

だが、ゲルマン法にはローマ法のローマ法大全に相当するような典拠となる法典・文献が無かったこと、ゲルマン法は中世以後地方慣習法に留まって19世紀のゲルマニステン台頭に至るまで大規模な法典編纂や研究が無く、近代以前の状態で停滞してしまっていた。

ゲルマニステン - Wikipedia

そして

 ゲルマニステンの流れの一部は19世紀末から20世紀にかけてローマ法に歪められた(と主張された)近代・現代社会への懐疑・否定につながり、ナチズムに奉仕する「ゲルマン法学」へと転化する動きが生まれたために第二次世界大戦後にはゲルマン法そのものへの疑義を挟む動きも生じた。

(同上)

と言われるのだが、これは「人々の動き」として理解した方がよさそうである。

フッサールは数学に関して思い付きで変なことを言ったのだろうか?
学統上は、しっかりしている。

1878年 春からベルリン大学のカール・ワイエルシュトラスレオポルト・クロネッカーのもとで数学の研究を続ける。

エトムント・フッサール - Wikipedia

1883年 「変分法」に関する数学論文で学位を取得。 ベルリンへ戻り、ワイエルシュトラスの助手となる。
(同上)

間違いなく、当時の最先端に居た。師匠が偉大過ぎて超えられなかったのであろうか。
そう考えると、高木貞治は、才能もさることながら、(ワイエルシュトラスも、リーマンも)クロネッカーも死んでいたし、早々にベルリン大学を離れてゲッチンゲンに行ったのがよかったのか、東京で自由に思索する時間があったのがよかったのか、フッサールフレーゲに批判された後だったからよかったのか。 

実は「数学の哲学」については日本でも既に、フレーゲ存命中の1915年(大正4年)に田辺元は「自然数論」という論文([1925]『数理哲学研究』所収)で、デデキント、カントル、フレーゲラッセル、ヒルベルトフッサール、ポワンカレ等を論じている。こうした学統は、三宅剛一「数の対象性」([1929]『哲学研究』No.158)、下村寅太郎『無限論の形成と構造』(1944)、数学者末綱恕一『数学と数学史』(1944)、高木貞治『数の概念』(1949)、白石早出雄『数と連続の哲学』(1951)等に引き継がれる。

G.フレーゲの論理・数学・言語の哲学*

国際基督教大学リポジトリ

高木 貞治 1875(明治8)年4月21日 - 1960(昭和35)年2月28日
エトムント・グスタフ・アルブレヒトフッサール
                   1859(安政5)年4月  8日 - 1938(昭和13)年4月27日

1901年 『論理学研究』第2巻「現象学と認識論のための諸研究」。 ナトルプやヴィルヘルム・ディルタイから好評を博し、当時ミュンヘン大学にいた若手心理学者たちがこれを読んでフッサールのもとへ走り、「ミュンヘン現象学派」を形成する。
(エトムント・フッサール Wikipedia

 ヴィルヘルム・ディルタイの弟子に筧が居て

1897年(明治30年)に帝国大学法科大学卒業(法律学科首席、法科大学卒業生総代)。同期生には美濃部達吉がいた[1]。大学卒業後直ちに大学院に入り、翌1898年から6年間ドイツに留学して、オットー・フォン・ギールケ、アドルフ・フォン・ハルナック、ヴィルヘルム・ディルタイなどに師事した。

筧克彦 - Wikipedia

フッサールの弟子は。。。誰だったか。忘れてしまった。
田辺元、コーヘン、カッシーラーレオ・シュトラウスまで手を広げるのはよそう。

アリストテレスの影響からカール・ポパーと同じくプラトンの国家論には断固反対したが、プラトンは認識論として読むべきとし、大衆を統一するには外部の脅威を用意したり、宗教を用いてもよいという「高貴な嘘」Noble liesをプラトンは唱えたと解釈した。ただし、彼個人は、マルクス主義やナチズムを「残酷なニヒリズム」として斥け、その台頭を許したワイマール政権も批判した。

レオ・シュトラウス - Wikipedia

ただ、こういった指摘は重要である。ともすればヴァイマール礼賛に傾きやすい思潮があるが、それぞれの当否はともかく、ここまでずっと見てきた、芽(流出)/鏡、一元論/二元論に落とし込んで理解するのは有益である。ただし、マルクスの時代になると、二元的一元論/一元的二元論も見かけ上出て来るので、注意が必要である。
また、「アララギ」がそうであるように、「マルクス以前」(の思潮)も混在する。

ところで、フッサールは、「大正デモクラシー」に重なる時期にフライブルク大学(1916年 - 1928年)に居たのだが、フライブルクとはどういうところか。

1871年ドイツ帝国成立によって、アルザスがドイツ領に組み込まれたこともあり、フライブルクはドイツ全体の経済発展の流れに乗ることになった。オットー・ヴィンテラー市長の下で、フライブルクでは新しい街区が歴史主義的な様式で建設されていった。1901年にはすでに、電気を用いた路面電車が運行していた。第一次世界大戦では、1914年12月14日を最初に、フランス空軍(当時は最先端だった)が非武装で開放されていた都市フライブルクに向けて爆弾を投下した。ドイツの戦争指導部は、それがハーグ陸戦条約に従った国際法上の制限を破るものだとした。だが空中戦は文民の意図に反してますますエスカレートしていった。フランスの戦闘機と飛行船はフライブルクへ、他のどのドイツの都市よりも多くの爆弾を投下した。

フライブルク・イム・ブライスガウ - Wikipedia