与謝野晶子の自由意志論(番外編)

 

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マルクス主義法学と乞食の論理(P227)

下のような論文がある。

わが国におけるマルクス主義法学の終焉(中) : そして民主主義法学の敗北
神戸大学学術成果リポジトリKernel詳細画面

マルクス主義法学者の言葉の悪さにくらくらするが、福祉の受益者を『犬』『乞食』と同等に罵った渡辺洋三を批判して『私は』ソ連の人たちを『動物園の動物』と言ったが『ピッタリである』と自賛するのだから驚くのだが、マルクス主義法学がルターの主語構文を主体に再構成した経緯を考えれば、要は、ルターもユダヤ人を罵ってやまなかったことを思い出し、系譜に連なって正統とも言える。要は、そういう類のハナシである。

実はこのマルクス主義法学の潜在的プロテスタントの系譜はところどころで見え隠れする。

👇を読んでの感想ではない。なにしろ、読んでいない。 

渡辺洋三に「福祉乞食論」の先達として引き合いに出されるのが戒能通孝で、戒能の師が穂積重遠と末弘厳太郎らしい。
ここでは穂積重遠が重要で、穂積重遠は穂積家の長男で穂積陳重の子であり、事実上弟子である。2年ドイツ、1年イギリス、1年アメリカで学んだらしい。法理学を研究し、その後大著『離婚制度の研究』を著す。
『日本家族法の父』と呼ばれたらしいが、民法改正にあたって、ここから「民法の時代」の始まったと言ってよいだろうか。法理学と言えば法実証主義の祖でありイギリス法の法典化への野心を抱いたオースチンであるが、時代の形成にあっては、法理学研究の成果が見ものである。

そうか禁酒法は1919年だったか。👇で優生学と禁婚法に言及しているが、ノースダコタ州法を取り上げている。『一、乱酒家』は、女性ならば45歳未満は禁婚、男性ならば45歳以上の女性以外とでは禁婚だったらしい。この九号が伝染性花柳病患者となっていたらしい。
新婦人協会が大正8(1919)-9(1920)年帝国議会へ提出した『花柳病男子の結婚制限に関する請願書』から『付録 優生学と婚姻法』が始まっている。新婦人協会は平塚らいてうの呼びかけで発足した「市民的婦人団体」であるが、Wikipediaを見ると、

与謝野晶子は、『新婦人協会の請願運動』と題する一文の中で、新婦人協会の活動目標を舌鋒鋭く批判。特に花柳病男子結婚制限への取り組みを、「全く異様の感を持たずにいられなかった」と辛辣にこき下ろした

新婦人協会 - Wikipedia

とあって、このことのようである。

その穂積が離婚を研究の中心にすえたことと関係があっただろうか、『フェミニズム』で論文を書き、また婦人問題を社会教育から考えてゆくのであるが、そのような婦人問題の捉え方は5歳年長で「穂積八束直系」を自認する上杉慎吉と同じである。
法理学については父である穂積陳重も研究したことであったが、とにかく、女権拡張と法理学は穂積重陳にとって両輪だったようである。
その穂積陳重平塚らいてう高群逸枝を支援したのであった。高群の論文の評価は芳しくないらしいが、それは別として穂積の影響だろうか、『招婿婚の研究』を執筆している。 

ちなみに、穂積陳重社会進化論の立場から天賦人権説を否定するが、マルクス主義法学の立場から近代人権思想を否定するのが渡辺洋三である。いろいろな立場があるものだ。高群はアナーキストだったらしい。
なお、穂積も戒能も愛媛である。石原潔も秋山真之も愛媛であったが、愛媛には何かあったのだろうか。
さて、もう一人の師、 末弘厳太郎であるが、こちらは、法社会学民法らしい。後に日本の労働法も起こしている。この法社会学と(革命的)民法の学統が 末弘厳太郎我妻栄ー川島 武宜ー渡辺 洋三となっているらしい。
この学統は、法社会学と言ってもドイツのルドルフ・フォン・イェーリングではなく、オーストリアのオイゲン・エールリッヒであるらしく、さらにそれを発展させて、「科学」にしてしまうが、これがマルクス主義を呼び込んだだろうか。
川島は末広からイェーリングの影響について「概念法学」と叱責されたが、イェーリングがサヴィニーを批判して言ったイェーリングの造語であるから、自己批判を迫ったようなことだろうか。最初から物騒である。 

どうも「革命児」末広は、大正デモクラシーを終わらせたようだ。
すなわち、もう一方の民法の父穂積は、むしろ「女」「子ども」の大正デモクラシーの旗手然として、 女権伸長に熱心であったが、やはり中央の人物であって、大正のもうひと側面である「地方」や「(周縁の)男」については末広が熱心だっただろうか。これが「大正デモクラシー」だと、美濃部達吉(実は一木)と原敬なので、資本の立場からの(中央と結びついた)「地方」(振興)である。末広たちは「そうではない」と考えてよいだろうか。

 

なんだったか。
そうだ、『乞食の論理』である。これがマルクス主義法学から出たのがこのような経緯と無関係だったろうか。「女」の社会主義共産主義と「男」のマルクス主義がねじてれて、なぜか、与謝野晶子マルクス主義法学者が字面では「同じこと」を言っているのであった。


こうやって見てゆくと、反対に、「〇〇法の時代」は、どこで終わっただろうか。

「労働法の時代」はあっただろうか?「マルクス主義法学」がなんでも飲み込んでしまって、見えにくくなっている。その混乱ぶりが件の論文に現れている。この大論文を読んでもなかなか要領を得ない。

そういう時代になったのか、現代でも、法廷も用意し、法学も用意し、法曹(法科大学院)も用意し、準備万端で始めた「知財法」は「時代」を築いたのか、或いは、消費者庁を用意し、確かに、(大陸法系かた英米法系への)レジテマシーの変更を迫ったが※、「消費者法」はどうか。

※そう考えると、法学研究だけでは、学統が伏流するだけで、なかなかレジテマシーの変更まで行かなかっただろうか。