与謝野晶子の自由意志論

 

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『君死にたもうことなかれ』

与謝野晶子と言えば、①「恋」②母性だが。

さて、どう考えればよいか。与謝野晶子を見ても、「モラリスト」ということしか浮かんでこない。時代が違い過ぎて、直接それで、与謝野晶子が説明されている文章を目にしないが、少しだけ手掛かりになりそうなのが、 

 P190に坂本紅蓮洞 - Wikipediaが出て来る。

「紅蓮洞」は与謝野鉄幹が名付けたらしい。坂本は慶應義塾出身で、福沢を尊敬していたらしい。なるほど、ここいらへんが、『英米思想的』であると「誤解」されるところではなかったか。与謝野晶子のぶった「子ども」論はモンテーニュのそれに近いように思う。

与謝野晶子とは - コトバンク

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24610/1/3001.pdf

そう考えるといろいろとしっくりくるところがあって、要は、主体を論じているのだが、古典を引用するのも、『恋衣』というのも、ロマン主義なのも、要は、同じ動機を持つ。表現主義であって、だから、耽美的ですらある。

そうして与謝野晶子の『恋』が現前化するのだが、これが「愛」でないところに意味がある。シェークスピアのyou/thouの区別であり don't love you /love thou 問題であり、ルターのthir(あなた)/du(おまえ)問題である。与謝野晶子にとって、それが愛/恋問題だったのだろう。だから実は、『給う』/『衣』問題である。
なんだか反対じゃないかと迷うが、何しろそういう観点からの分析がない。
要は、シェークスピアの登場人物がが「愛している」と「公言」できなかったように、「愛」を公然と名指しできず、貴方(君)のこととして語る。恋は、私という表現を通じて語られることである。要は、私は主体である。私(恋)/愛(君)で、私と貴方の分離が見て取れる。『死にたもうことなかれ』はシェークスピア以来の「発見」ではなかろうか。シェークスピアは意外に喜劇に近づく卑近さを見せていたが、与謝野晶子は悲劇に近づく高踏さを見せたように思う。

夏目漱石は『明暗』でようやく女性の内面を発見したが、与謝野晶子はその内面が男性と変わらないことを示したように思う。

それが彼女の「フェミニズム」であり、フランスのモラリストの伝統に沿う自由擁護論であっただろう。

モンテーニュの教育論の性格について : 1974-03|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

そうして、母性保護論争の準備ができた。

母性保護論争 - Wikipedia

与謝野晶子平塚らいてうを『奴隷道徳』『依頼主義』と批判したことが重要である☟マルクス主義法学。対立があるならば対立軸があるからだ。与謝野晶子が反対したのは『奴隷』や『依頼』であって、『道徳』や『主義』を必要としていた。だから『自由道徳』であり『自立主義』である。

山川菊枝は社会主義者である。このときの社会主義者は神を語らずに善を語らなければならない述語としての社会であるから、それが主体であれ、主語であれ、語られ、語るであって、(語られ)ることができる、(語る)ことができる、社会と謂う述語の善の可能辞を呼び出すのであるし、

山田わかはエレン・ケイに影響を受けたのであれば、「差異派フェミニズム」であってフレデリカ・ブレーメルの「キリスト教社会主義」に対峙するのであるが、その経済的自由主義ではなく、政治的自由主義を批判する。政治的地位の差異を認めて、(政治的に)救済しなければならないことを主張しているらしい。経済的権利(自由権)と精神的権利(自由権)の優劣を説いているようだが、どうだろう?
もしそうなら、同じように競争的な資本主義を批判しつつ、政治的な自由主義も批判できることとなるが、その政治的自由は形而上的自由に劣後する。廃娼運動は本来的な形而上的能力を発揮させない政治条件下において(その経済的な様相として)主張されることとなったようだ。
そう考えると、与謝野晶子は、フレデリカ・ブレーメルに近いのであろうか?
あぁ、与謝野晶子与謝野鉄幹と不倫だったのか。それは形而上的に褒められた「恋」ではなかろう。
この時代の男の『自由道徳』に不倫はあった。なにしろ、大正デモクラシーは、(男の)「女ぐるい」を新しい人格モデルに据えて恥じなかったのだから。『寂寥感』ひとつで済んでしまう。

差異派フェミニズム - Wikipedia

人類は恋愛中に種族の向上発展に最も効果ある淘汰の方法を発見した

エレン・ケイ 伊藤野枝訳 恋愛と道徳 

要は、「マッチング」こそ「社会淘汰」の形而上的方法で在り、一方で廃娼運動を『恋愛』レベルで主張しているようだ。要は、それ〈は〉性愛であると言っている。愛〈は〉規範表現であると。 

パサージュ論 <a href=*1 (岩波文庫 赤 463-5)" title="パサージュ論 *2 (岩波文庫 赤 463-5)" />

美濃部達吉与謝野晶子はともに「大正デモクラシー」で活躍したと紹介されるが、誤解されている双璧ではないだろうか。

その紹介の口上にある。

①『反戦家としては一貫性がなかった』Wikipedia与謝野晶子』)

この文は「反戦家として一貫性がなかった」に〈は〉系の〈措定〉構成にして評価したものだが、主題化(主体化)して要は、契機を胚胎して機序を為して当然としている。
すなわち、前提となる叙述に比べて「(一貫性)あるべし」としているのだが、彼女がモラリストであったなら、必ずしも、「反戦家」然としていたわけではない。当為の反対にあるのが可能だが、その様相である。そこに与謝野晶子の自由意志があったように思う。

どうも表現主義で在れ、耽美主義で在れ、軽く侮られてはいないだろうか。
これに(①+②|→ injectionを為して)合流(論証の体裁を)するのが

②『マルクス・レーニン主義も批判していた』Wikipedia与謝野晶子』)

これに〈も〉である。これは〈が〉系の〈指定〉構成にしてその選択の行方を主張している。「戦争が批判され」「マルクス・レーニン主義が批判され」ていたのである。これはvoiceを持っているので、「与謝野晶子が」という述語対象を以て、反語を胚胎し、与謝野晶子の自由意志、すなわち主体性が批判される。ただこれはそれを匂わせる、伺わせる程度のことしか言っていない。
このとき、この言葉を反復してしまったら、それが社会主義リアリズムである。なるほど村上春樹が『本当はそうじゃないよね』と独り言ちるだけで、文からより多くの内容を消してしまったマジックに似ている。語られないことによる排除の語用の一例であるが、排除される内容が豊かすぎるのだ。

例えば、『反戦家にしては』とすると、「たり」が「なり」になるのであるが、異なるニュアンスを含意しうる。変化の兆しである。その始末ぶりを強調すると、『反戦家と言ってしまうには』となる。つまり、それが仮定であれ、なんであれ、語る対象として〈指定〉にかける話法である。そうすることで、反対に「反戦家」の含意を問い直す。つまりは、「じゃあ、そこまで言う『反戦家』って何なの?」ということである。その語彙にリンクを張るかどうかではない。排除しない余裕である。
それが与謝野晶子の主張に適うと信じる次第である。

その結果どうなっているかを概観すると、「一貫性」と言っては「普遍主義」を僭称するがゆえに、豊かな内容が排除されて、「女の騒動」という小さなトピックに堕してしまっている。

 それはうがちすぎではないか

と信じるとしたらどうだろう。政治問題を扱っているが、主体論争で在り、まただからこそ文芸論争の一面を持っていたのである。「大正デモクラシー」の文芸論争がまさに新たな主題を掲げて揚々としていたのではなかったか。
与謝野晶子はそこから必ずしも排除されてはいないが、中心人物として語られるのは、係る「女の騒動」の方で、である。
なぜ、これをわざわざ「女の騒動」というかというと、これはある主題を相対を受けてのことである。すなわち、大正の男文士の中心的話題だった「女(ぐるい)」を受けてのことであった。そうして、与謝野晶子(自身)が焦点化されているのである。(「焦点化」が常に悪いかどうかは知らないが)この場合、男の下位属性として女があり、そのような女のこととして扱われているようである。

 『君死にたもうことなかれ』

は、シェークスピアの『ハムレット』にある

 I 

と同じ響きを持って、表現としては高度化している。与謝野晶子の天才性が彼女の主義として一語に尽きて表現された傑作である。ここで彼女の「主義」とはモラリズムであると信じているのだが、「私は君を愛していない」よりも「私は君を愛することができない」の方がより豊かな内容を持っていることが自明である。
この男文士たちが「大正デモクラシー」と嘯いて(なぜそれが「嘯いている」かというと、大正であろうがなかろうが、男は「女」に狂っているからである。)せいぜい辿り着いた「女(ぐるい)」を前にして、夏目漱石芥川龍之介の古典主義を凌駕してしまう。まさに正当な「大正デモクラシー」ではないか。夏目漱石の革命のたらんとする心情を脇に置いて、「革命の志士たらざる」としてあらためて「女(ぐるい)」に興じるよりも、「民権」から一歩抜け出て「デモクラシー」を伺っている。それが吉野作造と同じ「民本」(止まり)であったとしても、「女(カテゴリー)」と結局は男の口説にやすやすと乗ってしまうよりかは、よほど上等である。

つまり、大正デモクラシーの文士としてその先頭を走って、他の文士と同じように、表現主義を追求し、〈自由〉を追求したにも関わらず(その豊かな成果があったにもかかわらず)、「女」として、(男文士に焦点化された)「女」であるがゆえの「業」を(男文士とそれを肯定する者たちに)背負わされたのであった。

大正デモクラシー」は表現主義のことで、「女」のことだったのである。

それは「反対」にどういうことであったか。
焦点化された「女」の「反対」には何があったか。
もちろん「男」である。語る者たちの多くは男であっただろうから、その「男」とは満腔たる自分自身のことではない。「反対」に焦点化された「男」である。
容易に考える伝手を与えると立体視のアナロジーである。「男」と「女」がともに焦点を為す均衡がとれている様相である。

それが美濃部達吉である。
美濃部は解釈改憲によって法的レジテマシーの変更を迫る「美濃部革命」を為すのであるが(要は、法的保守即ち保守的解釈に対峙して、革新的、革命的解釈を施して、政治的に受け入れさせた。ここで問題になっているのが、政治的保守とは限らない、法的保守のことであり、明治憲法というその起草からしてきわめて政治色の強い憲法の持つ議論を延長した政治的効果のことであって、別の言い方では、「憲政の本道」がある。これは憲法の前に憲政があるとの認識を示しているが、明治憲法はそもそもそのような構成をとっていたかかなり疑問が残る。これは意図的にまたそれとは反対に無自覚に戦後の日本国憲法の解釈に受け継がれる騒動であった。つまり騒動自体が憲法機序として胚胎されてしまったのであった。議論がダメなのではない。それが議論の体裁を取らないことで錯誤を生じてしまっている。つまり、ここにも、排除の語りがあるのであった。)、彼は「美濃部革命」という「反明治革命」の主体であっただろうか。

意味を含ませ過ぎなのである。

美濃部はそのような主体としての英雄ではなく、一学者であり、社会という舞台装置の上で躍った役者であった。ハムレットは実在の人物ではなく、実在の人物を象った人物像である。我々はいつまで「ハムレット」に酔いしれるべきだろうか。そろそろ舞台演出に気づいてよい。

それが「反男」としての美濃部達吉であり、「女」としての与謝野晶子である。なぜ、「反男」と「女」が均衡を保って社会像を結ぶのか。
簡単である。
それを見ているのが男である諸兄だからである。
少なくとも一人の男である私はその講談に飽きた。
坂の上の雲』で戦艦三笠の下等水兵があわただしく準備を整える砲弾は汗をかきながら手渡しできる代物だったのだろうか?三笠は敵戦艦の放った砲弾を浴びて船体を傾けたのである。炸裂して被害を与えるよりも、そのポテンシャル(重力エネルギー)が威力を持ったのであった。炸裂が問題になったのは、むしろ発射時(乃至準備時で、無視できない事故を起こしてたの)である。
しかし、その演出は、そのような事情を思い切りよく無視することで、係る講談にここちよい程度に緊張感を与える名場面を構成したのであった。
やはり、司馬遼太郎は講談師であった。


マルクス主義法学と乞食の論理(P227)

下のような論文がある。

わが国におけるマルクス主義法学の終焉(中) : そして民主主義法学の敗北
神戸大学学術成果リポジトリKernel詳細画面

マルクス主義法学者の言葉の悪さに辟易とするが、福祉の受益者を『犬』『乞食』と同等に罵った渡辺洋三を批判して『私は』ソ連の人たちを『動物園の動物』と言ったが『ピッタリである』と自賛するのだから、驚くのだが、マルクス主義法学がルターの主語構文を主体に再構成した経緯を考えれば、要は、ルターもユダヤ人を罵ってやまなかったことを思い出し、解説論理的になるが、系譜に連なって正統とも言える。要は、そういう類のハナシである。

実はこのマルクス主義法学の潜在的プロテスタントの系譜はところどころで見え隠れする。

👇を読んでの感想ではない。なにしろ、読んでいない。 

渡辺洋三に「福祉乞食論」の先達として引き合いに出されるのが戒能 通孝で、戒能の師が穂積 重遠と末弘 厳太郎らしい。
ここでは穂積 重遠が重要で、穂積 重遠は穂積家の長男で穂積陳重の子であり、事実上弟子である。2年ドイツ、1年イギリス、1年アメリカで学んだらしい。そのせいか法理学を研究し、その後大著『離婚制度の研究』を著す。
『日本家族法の父』と呼ばれたらしいが、民法改正にあたって、「民法の時代」の登場といってよいだろうか。法理学と言えば法実証主義の祖でありイギリス法の法典化への野心家オースチンであるが、時代の形成にあっては、法理学研究の成果が見ものである。

そうか禁酒法は1919年だったか。👇で優生学と禁婚法に言及しているが、ノースダコタ州法を取り上げ説明している。『一、乱酒家』は、女性ならば45歳未満は禁婚、男性ならば45歳以上の女性以外とでは禁婚だったらしい。この九号が伝染性花柳病患者となっていたらしい。
新婦人協会が大正8(1919)-9(1920)年帝国議会へ提出した『花柳病男子の結婚制限に関する請願書』から『付録 優生学と婚姻法』が始まっている。新婦人協会は平塚らいてうの呼びかけで発足した「市民的婦人団体」であるが、Wikipediaを見ると、

与謝野晶子は、『新婦人協会の請願運動』と題する一文の中で、新婦人協会の活動目標を舌鋒鋭く批判。特に花柳病男子結婚制限への取り組みを、「全く異様の感を持たずにいられなかった」と辛辣にこき下ろした

新婦人協会 - Wikipedia

とあって、このことのようである。

その穂積が離婚を研究の中心にすえたことと関係があっただろうか、『フェミニズム』で論文を書き、また婦人問題を社会教育から考えてゆくのであるが、そのような婦人問題の捉え方は5歳年長で「穂積直系」を自認する上杉慎吉と同じである。
法理学については父である穂積陳重も研究したことであったが、とにかく、女権拡張と法理学は穂積重陳にとって両輪だったようである。
その穂積陳重平塚らいてう高群逸枝を支援したのであった。高群の論文の評価は芳しくないらしいが、穂積の影響だろうか、『招婿婚の研究』を執筆している。 

ちなみに、穂積陳重社会進化論の立場から天賦人権説を否定するが、マルクス主義法学の立場から近代人権思想を否定するのが渡辺洋三である。いろいろな立場があるものだ。高群はアナーキストだったらしい。
なお、穂積も戒能も愛媛である。石原潔も  も愛媛であったが、愛媛には何かあったのだろうか。
さて、もう一人の師、 末弘 厳太郎であるが、こちらは、法社会学民法らしい。後に日本の労働法も起こしている。この法社会学と(革命的)民法の学統が 末弘 厳太郎我妻栄ー川島 武宜ー渡辺 洋三となっているらしい。
この学統は、法社会学と言ってもドイツのルドルフ・フォン・イェーリングではなく、オーストリアのオイゲン・エールリッヒであるらしくさらにそれを発展させて、「科学」にしてしまうが、これがマルクス主義を呼び込んだだろうか。
川島は末広からイェーリングの影響について「概念法学」と叱責されたが、イェーリングがサヴィニーを批判して言ったイェーリングの造語であるから、「自己批判」を迫ったようなことだろうか。最初から物騒である。 

どうも「革命児」末広は、大正デモクラシーを終わらせたようだ。
すなわち、もう一方の民法の父穂積は、むしろ「女」「子ども」の大正デモクラシーの旗手然として、 女権伸長に熱心であったが、やはり中央の人物であって、大正のもうひと側面である「地方」や「(周縁の)男」については末広が熱心だっただろうか。これが「大正デモクラシー」だと、美濃部達吉(実は一木)と原敬なので、資本の立場からの(中央と結びついた)「地方」(振興)である。末広たちは「そうではない」と考えてよいだろうか。

 

なんだったか。
そうだ、『乞食の論理』である。これがマルクス主義法学から出たのがこのような経緯と無関係だったろうか。「女」の社会主義共産主義と「男」のマルクス主義がねじてれて、なぜか、与謝野晶子マルクス主義法学が見た目で「同じこと」を言っているのであった。

 

穂積重遠 - Wikipedia
戒能通孝 - Wikipedia
川島武宜 - Wikipedia
末弘厳太郎 - Wikipedia
渡辺洋三 - Wikipedia

穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883(明治16)年4月11日 - 1951(昭和26)年7月29日)
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)
戒能 通孝(かいのう みちたか、1908年(明治41年)5月30日 - 1975年(昭和50年)3月22日)
川島 武宜(かわしま たけよし、1909年(明治42年)10月17日 - 1992年5月21日)
渡辺 洋三(わたなべ ようぞう、1921年11月21日 - 2006年11月8日)

 

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