マルクス主義法学と「民族語」

 

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本当はマルクス主義法学が福祉国家をどう否定したかを見たかったが。
美濃部はやはり結構政治的で、もう少しまっとうに研究されてよいと思う。

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藩閥時代」「学閥時代」「軍閥時代」

を見るときに、美濃部の論争を眺めつつ、それが表現された制度として「憲法の時代」「民法の時代」「商法の時代(の始まり)」をなぞってきた。
「美濃部革命」は動員力としての国会運営と帝大の支持、なにより動員契機としての改元によって成し遂げられた(尾木希典の殉死は象徴的事件として二重に重要である。総力戦然とした日露戦争という「いつまでも終わらない戦争」への悔恨に生きた乃木の「謝罪」は、天皇と近代社会故に勃興した効果としてのまた近代社会故に求められた契機としての国民という二重性の中で惹起した問題だった。天皇主権と謂う、君主主権とは異なる、特殊日本的な主権論は、国民と天皇の世俗権力を超越したしたがって抽象的な実在によって構成された呼応関係を措定して権力(救済)契機を支持したものだったが、個々の市井の人々、町民で在ったり百姓で在ったりした人々が「国民」として相互参照する際の(承認)契機でありまた実践としての窮余の「回復」という政治力の具体的機序でもあったから、とどのつまりは定常的な農村社会に於ける農民一揆がスタンダードな政治力の発露であったしまたロジックを提供してきた日本社会に於いて、武士的な旧弊は「国民」と一線を画して精神的な安定を求めつつも宙ぶらりんな状態となった状態からの「回復」の儀式として選択されたものだった。そのような乃木が「死んだ」というのは、「政治的身体論」に寄せて言うならば、「「殉死」もまた死んだ」と言えるものだった。これが「美濃部革命」が改元時に具体化された経緯である。思惑は当たり、「大正デモクラシー」という特殊都市民的な、特殊自由主義的な国会運営を企図する、窓の中の民主主義であった(よって、富山の米度騒動が「大正デモクラシー」の文脈から解放される歴史学の成果は素晴らしい。一方で日比谷の焼き討ち事件は地方における動員力が試された事件であった。日露戦争で最大の被害を出した第9師団は終戦まで引き続き日本で1位2位を争う精鋭を誇ったが、北陸におかれたのであった。その富山に於いて、横浜や)。

こうして各地に在郷軍人会が生まれると、明治43年(1910)、陸軍は全国の在郷軍人を統轄する帝国在郷軍人会をつくったが、郷土の代表として命を擲った在郷軍人たちは、青年会などと連携しながら、村の中で大きな政治力を持つようになった。

大正デモクラシーは「日比谷焼打ち事件から」は誤り、なぜ軍国主義を招いたか | ニュース3面鏡 | ダイヤモンド・オンライン

 日露戦争は「辛勝」というのが定説だが、「辛勝」の対義語は何だろう?
「惜敗」正しく読めますか? 英語での表現方法や使い方を解説 | マイナビニュース
「惨敗」の反対ならそれでよいではないか、と思わないではないが、どうも「完勝」「大勝」が反対にイメージされているようでいて話を聞くとまた違い、終戦ラインの時系列的な問題のことである。要は前後感覚によって支えられており、行為論が決断主義を引き寄せて劇的な心象風景を彩るらしい。つまり「もう少し遅れたならば、負けていた」から「辛勝」なのである。それが「わかるかどうか」を問うパロールを形成して違和感がないのであった。フツウ参謀はニュートン空間における量(の遷移)を以て計量的に考えるがため(したがって、戦略論とは、量の合理化効果を得られるマッピングの企図を云々することである。)、戦況観察しかしないが(したがって、「勝ち」は目指すものであって「負け」は企図されることではないー「2番じゃだめですか?」「2番を目指して開発するものではない」)、状況の総遷移的な変化を企図する「勝ち」「負け」はそれゆえ決断的行為なのであったーしたがって、フツウに考えるならば、「太平洋戦争は避けられたか」ではなく「戦争が戦争を養う戦争の自己拘束に従うならば、総力戦からゲリラ戦の全面展開は企図できたか」の条件論を考えることとなる(戦争の内的動因によって駆動される、要は「決戦」の連鎖として全体の戦争遂行を企図する、ナポレオンもヒトラーも石原も落ちた※、一方で前時代の戦争では無視できないスタイルでもあった、「現地調達論」は失敗したが、戦争は戦争中も目的への要素導入の競争の中で変化を余儀なくされることと考えるならばー実際に戦争は戦争中にこそそのスタイルを変えてきた)。
※石原にしても総力戦を志向して「決戦型」を忌避しつつ「戦争で戦争を養う」ともいうのであるから、いい加減ということもあるがー石原はいい加減な言説を弄するー、基本的に「ポスト」にしか生きられない人間の認識能力では同時代に生きるとはかくも難しいことであったのだろう。むしろ、日露戦争を指揮した  はなるほど時代を超越していたように見えるが、信長の喝破ににて、やはり総力戦を理解する必要がそもそもなかったのであった。

 

志士、烈士を目指す夏目漱石はどう見たかー鈴木三重吉漱石のようになれなかった鈴木は時代の申し子か)。そして、それは地方における近代的発展の利益拡大と平仄をなし、より動員力に勝る軍隊による「民主主義(機会的に平等な承認機能)」を背景に持つ「軍閥の時代」を準備したものだった。

 

そのとき、美濃部の意外な「小物感」は、「学閥時代」が、士族の師弟におおむね占有された「帝国大学」が、欧米の近代法の基底を支えた神学論争を拒絶しつつ「日本的」に法学を受容する学生に支持される中、学校群を連携させまた拡充して「体制」を準備しつつ国会運営をどう支えたかを概観してきた(らよかったが、そこまでの力量はない)。国会の運営も 
本格的に商法の時代を迎える商法の揺籃期において、

 

再び鈴木三重吉

それはまた地方から中央への道筋でもあった。
(略)
ただ、それは漱石の言う「命のやり取りをするするような維新の志士」の如き「烈しい精神」に応ずるものであるかは別である。

ーおわりに(P21)

地域性と文学 : 鈴木三重吉「千鳥」「山彦」、「小鳥の巣」を中心に
槙林滉二
広島大学近代文学研究会

 

わが国におけるマルクス主義法学の終焉(上) : そして民主主義法学の敗北/森下敏男/ 神戸法學雜誌 64(2) PP 47-224

戦前登場したマルクス主義法学は戦後席巻したらしいが凋落したらしい。

商法の時代の後何が来たか。「刑法」と言うと、何かおかしな時代感覚を疑われかねないので、マルクス主義法学と一応言っておくか。
要は、現在通説である、行為無価値論はナチス時代のドイツ法学の成果だが、ナチス法学は別として、それは、目的的行為論という主観論とともにあって、それ以前には(かかる論争に於いて批判対象とされた)、目的論的行為論があったということである。

まだ詳しく見ていないが、歴史法学を批判したのであれば、それは「憲法批判」の裏返しであった。<鏡>か<芽>かと言えば、二元論であっただろうか。
ならば反対側に一元論があるはずで、ここにマルクス主義法学が現れる意味があったはずである。しかし、それは自然法論とは異なる形で。
つまり、実証主義自然法論ーマルクス主義法学の、何だかそれぞれ述語の異なる3語を比較するのも奇妙だが、この奇妙な三角形が成立して、なかなかするりするりと議論をすり抜けてきたようである。

マルクス主義法学とは今のところの感想では、要は、ルソーの一元論が人間を基礎に置きつついわば「位格」としての人間像であってそれに対置されるのが「振舞」を似せるための道具ととする人間像、ロジカルな<鏡>であった。「振舞」に依って人間性が期待されるのではないのである。しかし、それは「位格」であって、啓蒙的ではあるが、神秘的であった。グランドセオリーとしては「「私」の自己拘束」、すなわち「自己所有」である。しかしどうもその「自己」に疑問を投げつけたのがマルクスで、意訳すると、一元論(流出論)に根差すときどうしても支配から逃れられないのでるから、その支配を明言すべきであると言ったらしい。流出元が「何か」であるとは「誰か」でありそれは「誰かの所有」を帰結するから、つまりは、流出元の具体的管理である。神学から人間学への転換乃至転嫁であった。その者には「責任がある」という不利益命令である。ここに実証との結合が見て取れるが、一元論の系譜に違いない。要は、我々が流出元を管理する方法を実証的に具現化できることを言ったのである(実証的にはどのような法も可能である)。これは「科学」と僭称されたが、本質的には神学に根を持っていて、しかし方法的には実証主義であった。「(科学的に普遍な)法則」というよりも「(神学的)予定」である。物理学上の「人間原理」とも異なるようである。
すくなくとも自然科学ではなく、法学(人文科学)であった。

それでは実践的には、どうすれば「流出元の管理」などできるのか。