「学閥時代」を準備したもの(2)

 

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そういえば、一木に触れなさ過ぎたと思い、追加することにした。
美濃部が「政治的」であったことは言ったが、美濃部にはどうしても「小物感」が付きまとう。「小物感」と言うと歴史上の偉人を捕まえて大変失礼であるが、どうにも扱いがぞんざいというか、本当に法学者としてどれだけ認められていたか、実は判然としない。「促成栽培」と言ったが、士族出身がほとんどだった学生を相手に「よくわからない」授業をしていたのも士族出身の教授であって、そこらへん士族は士族でひとまとめにできるものなのかどうか、何しろ士族になったことがないのでわからない。
福沢にしても有名な割に、渋沢栄一のように、わかりやすい事績がそれほどあっただろうか?確かに慶応大学を創って、慶応大学は社長を生み出すことについては東大を凌駕するらしいが、例えば、「5大法律学校」と呼ばれるような一種の社会制度を作ったような気がしない(個々の学校も制度の立ち上げに奮闘し、また多くの法曹を生み出したが、そういうことではなく、それ自体がひとつの制度として社会価値における支配的な地位に棹差して重要な役割を果たすことである。要は、すそ野を広げるーポイントではなくー戦略的なマッピングである。)。
しかし、自由主義の議会を作ったことは重要で、ただ「自由民権運動」が「商業民権運動」に変わる流れは福沢の意図することだったろうか。
それはわからないが、「憲政の常道」をさも立憲主義のように受け取ったところで実は「憲法の前に憲政あり」のことであって、ドイツ憲法の前にイギリス憲政があったことに過ぎない(自然法論派と実証主義派の対比とも関係する)。その憲政を握っていたのが誰だったか、ということであった。
そしていつしか憲法の時代は終わり、「第二憲法」である民法の時代も過ぎ※、商法の時代になるにつれて、陰影を深めてゆくのであって、その時代にさしかかって、美濃部が何故「小物然」としていたかうかがい知れるものがあるのであった。

※戦後よく、「明治憲法の欠陥」が指摘されるが、そんなに単純なことはなさそうである。その誤解を解くためにも、「(真)日露戦争物語」を江口達也には描いてほしかった。「司馬講談」は昭和にウケたのである(行動主義を感情から支える主体教育。これが行動ではなく「行動主義」であるところが根深い)。比較法制史と世界戦略を(劇上の立ち回りでなく)臨場感を以て納得させるものでないと、この時代は、どうにもわかりづらい。


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天皇機関説報徳思想の言い換えと謂えてしまうと楽だが、そもそも報徳思想が学問でないため比較しにくい。

報徳の教えとは、二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などと、農業の実践から編み出した、豊かに生きるための知恵である。神仏儒を究極的には一つにいたる異なる道に過ぎないと位置づけ、神仏儒それぞれの概念を自由に組み合わせて説かれている。そのため報徳の教えを報徳教と呼ぶことがあってもそれは宗教を意味するものではない。

報徳思想 - Wikipedia

この実践のなかで初めて理解できる言語化できないものこそに報徳の教えの真髄があり、尊徳が「見えぬ経をよむ」という言葉で示しているのはまさにこのことをさす。

(同上)

 (石門心学などの)心学系なのかというと、果たして影響を受けたかはどうかについては知らないが、似たような部分がないわけではないらしい※。しかし、そういった土着の「納得の仕方」の取り扱いは難しく、それでは世界中の邑を探して、このような倫理観を持たないことがあるかというと、世界中の神話が似て来るようなハナシで、素朴な社会観察にもとづく生活実感の共有以上のことが見出せない。現状の価値観の追認以上のことがあるだろうか?「學」とならなければ、批判とならない不満で終わる。

※一木は報恩思想の普及に功績の大きい  の子で自身も  
もともとは遠江国の出身で遠江国曹洞宗の盛んな地で、報恩思想と何か関係がないかと考えると、「禅」と「太極拳」に行き当たる。これはいずれも少林寺が発祥に関係しており、少林寺は武術で有名だが元来禅宗の寺である。

嵩山少林寺 - 中国河南省の寺。禅宗の開祖達摩(达摩)による禅の発祥の地と伝えられる。少林拳の中心地。

少林寺 - Wikipedia

太極は無極にして生ず。動静の機、陰陽の母なり。 動けば則ち分かれ、静まれば則ち合す。 過ぎること及ばざることなく、曲に随い伸に就く。

太極拳論 - Wikipedia

禅は、陸軍が明治期にはすでに海外視察に基づき近代軍隊の建設には「内面の動機付け」こそ必要と気づいていたところ、紆余曲折を経ながら指導実践を重ねて兵隊管理に利用されたが、これはすでにひろく一般に禅が普及していたからであって、兵隊になじみのないことを導入しても結局はうまく行かない観察にもとづく。

藩閥時代」を克服した「学閥時代」とはカロリングルネサンス(をあらためてカロリングデモクラシーと呼びたいところだ。)と比較したら興味深いと思うが、次に訪れる「軍閥時代」はやはりドイツにもみられた「徴兵による民主主義」の観があって、《民法出デテ忠孝亡ブ》ではないが、法とは何かを考えると、ディシプリンの土着化にも似たようなところがあるのは「さもありなん」と腑に落ちるのであった(個々の兵隊にとって腹の立つハナシかどうかは別である)。

ここで言いたいのは軍隊のことではない。
要は、士族の師弟がほとんどだった時代に、キリスト教神学を由来に持つ国法学を高踏的に垂れても誰が納得するのか、ということであった。いや、朱子学なんかは大分理解の役に立ったとは思うが(だから、理解のできる者たちで「同志感」というかシンパシーが沸くのか、上杉の一番仲がよかったのは資本論を始めて完訳した(とも言われる)  ではないのかと思えてくる。彼は同志社の神学部を出ていた)。
一方で「禅問答」が庶民の「學」の時代であった。
(なお、原敬は、カトリックの洗礼を受けていた。)

 

 

佐々木:幕末から明治にかけてのネットワークには血縁と地縁、そして報徳の教えによってつながる3つのネットワークがあり、それぞれがゆるやかに重なっています。報徳の教えを大切にしていた地元の豪農(地主)や豪商が、浜松の産業創出に大きく影響しています。

浜松産業の発展に貢献した「報徳の教え」|特集|浜松ものづくり企業ナビ|浜松市産業振興課

 

明治以降は、国の殖産興業政策により、織物技術の普及と振興が積極的に行われ、明治29年には豊田佐吉が小幅力織機を発明

■遠州産地の歴史 - senikyoukai-shizuoka ページ!

 

明治初期から後期にかけて、織物工場の組織化が進み木綿商人の販路も関東から東北まで拡大します。そのなかで「遠州織物」の名は全国で知られるようになりました。

浜松のものづくりを盛り上げるWEBサイト検索 浜松ものづくりプロジェクト 浜松ものづくりプロジェクト

 山田線を通じて鉱夫にも良質の作業着が届けられたのだろうか?

余はこれに答えて大森林や鉱山の天与の宝庫である、なんの不利なるや、と反論したのである。

山田線 - Wikipedia

『明治三十八年頃には早くも支那満州方面へ』到達していたようである。
明治38年とは日露戦争終戦の年であった。

遠州織物銘鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション

軍服でも作っていたのかな?と思ったが。
井上秀(敬称略)は松江市の出身で『氏は明治大学の出身にして光学機器輸入販売をなし一面東京偕行社の洋服裁縫を請け負うこと多年軍服商として知名の店舗なり』とある。ちなみに乗馬が趣味であったらしい。

羅紗洋服商名鑑. 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

天津は賑わっていたようだ。そうか、『支那』とは『北支』のことで要は天津のことだったのかもしれない。

北支蒙疆商工名鑑. 昭和14年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

明治33年(1900年)9月26日、勅選議員として貴族院議員に就任(~1917年8月30日)
明治35年(1902年) 法制局長官に就任
大正  3年(1914年)4月16日、文部大臣に就任(~1915年8月10日;第二次大隈内閣)
大正  4年(1915年)8月10日、内務大臣に就任(~1916年10月9日;第二次大隈内閣)
大正  6年(1917年)8月14日、枢密顧問官に就任(同年8月30日、貴族院議員を辞職)
大正14年(1925年) 宮内大臣に就任
昭和  9年(1934年) 枢密院議長に就任
旧制武蔵高等学校初代校長
社団法人大日本報徳社社長
226事件中は、昭和天皇の相談相手を務め、事件終息に尽力した。

枢密院議長在任中、天皇機関説の提唱者として、弟子である美濃部達吉とともに非難される。一木との政治抗争にあった平沼騏一郎の政略であったとも云われている。

一木喜徳郎 - Wikipedia

 Wikipedia上でも微妙な駆け引きがあるのだろうか? 

なお西園寺側は天皇機関説事件の黒幕を平沼と誤認していたが、当時平沼は枢密院議長ではなく内閣総理大臣として軍部を統制することを目指しており、平沼の陰謀とすることは難しい。
平沼騏一郎 - Wikipedia

必ずしも一般的ではないが、平沼の重要な事績としては 

明治年間の第1次桂内閣末期、実業界の資金不足のために民間から資金を集める方法が議論され、社債の相談を持ちかけられた司法部の平沼が、社債信託法採用の意見を述べた。

(Wikipedia 平沼 騏一郎)

なるほど、第1次桂内閣は1901年(明治34年)6月2日から1906年明治39年)1月7日らしい。憲法の時代から民法の時代を経て、商法の時代になったのか。
台湾拓殖会社そして満州重工業開発を準備したか?

日中戦争期における台湾拓殖会社の金融構造 湊 照宏/日本台湾学会報 (7) 1 - 17 May, 2005
満州中央銀行の資金創出・資金投入メカニズム ―日中 ・太平洋戦争期を中心に―/安冨歩/人文學報 (1991), 69: 69-113

www.funai-finance.com

平沼は明治21年1888年)法科大学法律学科英吉利部を1番で卒業している。

官報. 1888年07月11日 - 国立国会図書館デジタルコレクション