「地方語」は、フッサールに似ているが異なり、説明状況の選択的排除よる語彙の多さと非一般的性格を持つ。「中央語」はもちろんフッサールには似ておらず「地方語」ではない。したがって、近代批判として現れた「自然改造批判」はドイツ人と日本人とでは謂っていることが異なる「民族語」である

ぜんぜん途中だけれど、リリースすると、何か思いつくかもしれない。

 

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鈴木三重吉の「中央語」構成の言語論的方法(記述方法)
ー語彙から語形変化(「役割語」)へ

反対から言うと、鈴木三重吉が提示した  までの『』は、地方在住の者を役割として演じられるものではないということ。なぜなら、それが方法を超えるからだ。方法を超える以上、存在に直接根差す。しかし、それを記述さる際には、「方法」として記述できない「パラドックス」を内蔵することで達成されるはずである。したがって、その「存在」は、再帰的でかつ循環的に記述されるはずである。その観点から『』を再評価する。その際、夏目漱石の『草枕』の美的判断「憐れ」を参照する。
これはリスク評価となるはずである。

村上春樹は(文脈上明らかに不自然な)宗教(性)の排除によって、何を獲得したか

鈴木三重吉の到達した、または依拠した、中央的思潮であった消極的な『寂寥感』や積極的な『渇望』の二方向乃至その二方向性は、村上春樹の『欠乏感』乃至『父の不在』と言語論的(記述的に)に異なるか。

③荒木の依拠した歴史社会学派の謂う「ヒューマニズム」(実在)の記述方法

④目的論的行為論から目的的行為論への移行の経緯

⑤大正新教育運動の記述方法における実在

{大人|順序}(外的動機付け)から{{大人}{子ども}|順序}(内的動機付け)への移行の記述方法とリスク上の効果。兵隊教育に見る相同(処罰主義から反省主義へ)ー「連帯責任」の発生機序。大正デモクラシーが「右傾化」を妨げたわけではない(主体教育に関して、民主主義の持つ二側面:権力契機(正当性)と統合契機(正統性)、或いは反対措定の機序)。
なぜ、大正デモクラシーが、藩閥時代を終わらせた学閥時代とともにあり、またそれが軍閥時代を準備乃至(軍閥時代の前駆と)並走したか。

 

 

目次
思想家の歴史と思想史
言語への転回
真理と意味
心のなかから思想を追放すること
ブレンターノの遺産
意味についてのフッサールの見解
指示を欠いた意義
ノエマと観念論
フレーゲの知覚論
思想を把握すること
フッサールの知覚論
原思想
思想と言語
インタヴュー

『分析哲学の起源』

興味深い2点を挙げる。

 「フランス国王は禿である」
(『現象学分析哲学の分岐点』)

ラッセルはイギリス人であり、フレーゲはドイツ人である。
ラッセルは、語意/語用について語り、意義(語用)に『偽』であることの効果を含む。
フレーゲは、 

L1 或る〈ある〉・は・フランス国王で〈ある〉
L2 或る〈ある〉・は・禿で〈ある〉
L3 フランス国王(で〈ある〉)・〈ならば〉・禿(で〈ある〉) 
L4 禿 で〈ない〉 フランス国王・は・〈ない〉 
L5 L3≡L4

と記述できるとき、〈ならば〉は(〈ある〉と同じ、或るいは、〈ある〉とは別の)『指示』であると語った。 

次に

ノエマにはフレーゲが苦労した問題を解くのではなく、解消してしまうところがある。

現象学分析哲学の分岐点』

フレーゲは二元論(〈鏡〉)に立ち、フッサールは一元論(〈芽〉)に立つことを言っている。二元論が解けなかった問題とは何か。

イデエルな「意味」的対象=ノエマとしての「樹木」である。

ノエシス・ノエマとは - コトバンク

すでに数学者フッサールは「道徳的」であることを免れていたか。そういった意味ではルソーを克服している。いわば、道徳なきルソーだ。
ここで考えなければならないのは、鈴木三重吉現象学的に思弁していたかである。
似ている点もあるが違うと思う。あくまで語彙である。地方の人間の方法論である。そういった意味ではあくまで<鏡>であった。ただ、「中央語」は「地方語」に、状況の構成に於いて対峙する。「地方語」は「そのような状況を作り出さない」という『指示』で、排除的なのである。反対に「中央語」は「そのような「排除」を作り出さない」という『指示』で、統合的(侵奪的)なのである。 つまり、あくまでフレーゲ的なのであった。

そう考えると、戦前或いは戦後参照された、近代批判としての「自然」擁護もまた、日本は意図に反して、ドイツや欧州と異なっていただろうと思う。近代に到達した、、、、「自然の改造」(トーマス・マン魔の山』)を、それを忌避するにしても、どうとらえるかがそもそもドイツ人とは異なっていたのだ。そういった意味では「民族語」ではある。

そして「民族語」であるならば民主的であって、地方における民主主義とは、「国会主義(普選主義)」を直ちに帰結しないということであった。すなわち、民主主義の動員(統合)的側面(機序)である。

そして、大正デモクラシーでは、民主主義の権力的側面(契機)と結びついていたのであった。つまり、一方では、原敬の「我田引鉄」が、一方では、群衆による演説会ほか運動が。そして、さらに権力を以て動員力が大きい軍隊が、大正員教育運動の「子ども」の延長に「兵隊」を置いて(実際に、徴収される兵は未成年で、今なら「子ども」だ。)反省主義を採っていたのであった。その延長に(上杉が民主主義における新原理と呼んだ)「愛国」があったのである(これが民主主義の文脈から導かれることが重要である)。

つまり、これが、大正乃至昭和初期の「世代語」(であるがゆえの「民族語」)の経緯である。すなわち民主主義には不可分な二側面の特殊日本的な帰結である。直接言及できることとして、「大正デモクラシーが「右傾化」を妨げることができたわけではないといえるは、云えるのでなくして即ち説諭(説明論理)ではなく、謂えるのであって即ち議論(構成論理)である」。民主主義とはそういうものであることが理解されていなかったのであった。