鈴木三重吉の近代観

 

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現象学って「何でも箱」になっちゃって、何でいれたくなるけれど、入れると、せっかく鈴木三重吉が考えた「中央語」の意図がみえなくなっちゃうんだよね。

鈴木三重吉のそれ以前の言葉(「地方語」と呼ぶ。)は、現象じゃなく、状況ごとの語彙選択でいちいち語彙を増やすから多くなるのだけれど、或る限界を迎えると、説明される状況を制限することとなる、Aという状況とBという状況が異なるにも関わらず、おなじ説明が付与されることを以て「地方の特色」なんだ。だから、語意が煩雑であるわりに、説明力が乏しい。
それをくつがえすのが「中央語」で、語尾変化に汎用性を持たせることで、語意自体は増えないが、説明力が増した(はず)。ただし、実感に乏しい。
つまり、NHK大河で東京の役者が、或いは、東京の台本が大阪を演じ、また描写しても、それは「大阪じゃない」という実感を大阪の人にもたらす。

という発見を誰よりも早く鈴木三重吉がしたのではないかと思う。
鈴木三重吉以前に「役割語」がどのようにあったか。