鈴木三重吉とロシア革命

あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな

宮沢賢治 - Wikipedia

 鈴木はおそらくアルコール中毒であってこの会話の指示をそのまま信じることはできない。ただ、そうだとしても、こう言いうる根拠はあっただろう。それが正しい必要はない。

宮沢賢治エスペラントと鈴木の中央語の関係である。
当時鈴木は、徳富蘇峰の「平民新聞」である『國民』

この言葉の前には『君俺は忠君愛国だ』と言ったらしい。天皇機関説論争の渦中の時期である。もちろん、これも鈴木の思想性の表明かどうかは直ちに判然とせず、病的ないちゃもんと考えた方がよさそうなのは、どうにも謝罪の意を込めたとしか思えない『注文の多い料理店』の無料広告を後日掲載するからである。「そう言ったにもかかわらず、一方で」広告を無料にしたというより(バツが悪くてそういう言い訳を表向きにしたとしても)病的に酒癖の悪い鈴木の「いつもの行状」ではなかったか。「病識がない」とはときにそのような外観を持つだろう。 

 

刑法の時代があるとしたら、どのような時代だろう。
商法が「商法の時代」を持ったのは、民法から独立して固有の領域を持ったその仕方ゆえであった。グランドセオリーの導入である。反対に謂うと、それまでは、何かしらの理由で従属的であったはずであるが、有限/無限の議論にそってそれが謂えるだろうということであった。それが田中耕太朗の「色彩論」でそれはトマス・アクィナスの一元論(新プラトン主義の「流出論」)の翻案であった。
ちなみに、田中耕太郎は、あの砂川訴訟で最高裁判事を務め、「統治行為論」を導いた泰斗である。アメリカと事前に通じていたことが実証的に裏付けられているようで、そういった意味では、(米の具体的な支配戦略以上に、私自身の興味範囲から言うと、)「アメリカ革命」の一環だったの方が気がかりである。つまり、一方で宮澤がいたのであり、田中は新憲法論争においてアメリカ采配のもとでは宮澤の後塵を拝したが、ここで追いついたようであった。(田中の)「大正デモクラシー(観)」はアメリカに否定されたのであった(そう考えると、リベラルサイドが、やたら「大正デモクラシー」を過大評価するのが、なんとなく頷ける。今では田中角栄を評価するのは石原慎太郎というのが対照的で面白いが、彼らは、美濃部と原や「大正」を称賛してやまない。もちろん、それがどのような言語行為的方法論を採っているかも興味深いが、主観的にではなくに分析的に考えるならば、歴史はそんなに単純ではなく、民主主義に不可分な二側面がある以上、「民族語」を以て互いにそのような時代を展開してきたと考えた方が自然である。すなわち、「大正デモクラシー」は、「右傾化」を原理(構成)的に妨げていない。要は、「大正デモクラシー」は、語り方(説諭)の問題に過ぎなかったのだ。それは「語られない」ことによる排除の企図である)。
それでは「刑法の時代」に似たようなことがあったか。
どうもイェリネックがそれに相当することをしたと考えられるようである。日本で言えば、牧野英一であり、戦後刑法の重鎮団藤の師匠であり、  の弟子である。

近代国家には、「近代」的な「国家」として成立するために、(固有に、)動員(統合)契機ー正統性(権威)の機序、回復契機ー正当性(権力)の機序がどうも必要で、憲法の時代には主権論争として表現され(ただし、憲法の前に憲政あり。)、民法(第二憲法)の時代には、これついてまだよく見ていないが、 商法の時代には、固有の法領域の問題として表現され、刑法の時代には、概念法学(規範法学)を批判して社会価値達成の表現と見るのであった。

しかし、法実証主義は、法概念論(法の認識)と法価値論(法の評価)との峻別を主張するのみであって、法価値論の放棄を説くものではない。実際、ベンサムのコモン・ロー批判、ハートのリーガル・モラリズム批判、ケルゼンのイデオロギー批判など、法実証主義者は多くの場合、精力的な悪法批判者でもある。法実証主義は、法の存在条件を社会的事実のみに求めるので、法が法であるというだけで遵守されるべきだとは主張しない。

法実証主義 - Wikipedia

原理構成としてはおしなべて有限/無限の記述問題であった。
いや、果たしてそうだったのか。
つまり、その元祖たるアンセルムスが二元論者であったがゆえに、アンセルムスの言語(記号)的方法が、そうであるがゆえに説明していないと批判されたことは何だったか。「神の存在証明」でアンセルムスが解消したのは、帰属(統合)問題であった。つまり、正統性の問題で、正当性の問題ではない。ケルゼンもまったく同じで、要は、説明されないこと・は・〈ある〉というコプラを用いた構成であった。したがって、神は措定されている。これは論理関係に落とし込んだのがアンセルムスの天才性で、説明できること(有限)は説明できないこと(無限)からしか説明されないのであるから、説明されることがある以上、説明されないこと・は・〈ある〉と(コプラに)言い換えたのだ。これを乗り越えた哲学者はいない。それぐらいの天才であった。これ以外では直観主義があるが、直観主義も〈ある〉とは言えても〈ない〉とは言えないので仕方がないのであった。
これに悩んだのが、フレーゲで、  は楽観的に考えなかったか。いや、後ほど、「失敗」と言い切るのであるが。

すぐれて近代国家的な方法である民主主義にもこれがそのまま当てはまる。美濃部が天皇主権を形式上当然視しながら(その実国家主権主義だったのだが、それはさておき)戦後の言い訳で、憲法改正に触れて、国民を無視しえなかったことからもわかる。それを「実態的な『国民主権』」と呼ぶかどうかは、説諭の問題に過ぎない。要は、天皇主権は君主主権ではなかったのだ。上杉の「天皇即国家」にしても内実はそうである。民主主義の不可分な二側面をどう言い繕うかの問題で、上杉と美濃部の違いはむしろ、師が嘆息した『それは自然法ではない』問題であって、上杉は抽象的実在論者で、美濃部は素朴実在論者であったに過ぎない。そいった意味で、上杉は神学論争の演繹性を欧州の正統エリートの系譜に連なる者として表現したのであるが、なにしろ、美濃部は庶民出である。肌感覚としてーいや、「大正デモクラシー」に至っては「生活感覚として」と言ったほうがよいかーわからないようだった。なお、実在論には、素朴実在論/抽象的実在論/科学的実在論があるので、次には、科学的実在論がどう登場してくるかも重要なタームを形成するであろう。

コピュラ - Wikipedia

膠着語 - Wikipedia

形態的類型論 - Wikipedia

エスペラント - Wikipedia

エセ関西弁、なぜバレるの?(謎解きクルーズ): 日本経済新聞

 「しちゃう」とは云十年前にも話を聞いたことがある。
「大阪代表」(と言っても、兵庫県在住)の方が「最近」の女子の(だったと思うが。)そのような言葉遣いに疑問を呈したのがきっかけだ。「どう思う」と言うのだが、三重県代表と言っても、5歳までのハナシで、沿線が和歌山県と競っているというただの冗談で「関西入り」しているだけの私には答えられない謎だった。正味大阪府内在住の方は「最近聞くな」と相槌を打っていたと思う。常識人だ。滋賀県代表の方は好評価だったと思う。他人を徒に否定せず、フェアな方だ。ただ、和歌山県の方は、「おかしい」と断言したような記憶がある。さすが熊野信仰で世界遺産されるだけある。『してまう』をかたくなに主張したが、語源は『して詣でる』だったのだろうか?それもまた関西愛だろう。

云十年前の個人的なハナシである。

前回は、どう考えても、キリスト教の影響を直接感じさせるような表現が並び、主述が聖書に因んでいることがあからさまであるにもかかわらず、村上春樹の翻訳(むしろ、習作に近いとすら思える。)では、ほとんど完璧に宗教色は抜け落ちー焦点を主述(救いのremenber)からその目的語(偶像崇拝を対象化して内省する人格対比であるところを社会関係)にずらしてまでー、これがどうも確信的に行われたようであることを述べた。

aniram-czech.hatenablog.com

aniram-czech.hatenablog.com

チェコ好きさんが素晴らしいのは、シュルレアリスムを大学院で研究してきたうえで、村上春樹が好きで、『グレート・ギャッツビー』を愛し一家言あるところだ。
何も知らないが、シュルレアリスムは、ダダイズムのあとの芸術思潮らしい。『グレート・ギャツビー』と同時期のハナシだ。そして村上春樹の不思議な感じもマジックリアリズムで説明されているらしい。

ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した。
シュルレアリスムジークムント・フロイト精神分析カール・マルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。

シュルレアリスム - Wikipedia

赤字強調は引用者。
日本では安部公房が有名らしい。 

プレゼンターから「あなたは人間性という普遍的なものをお持ちだ」

安部公房 - Wikipedia

よくわからなかった「ヒューマニズム」がこんなところに。そうか。
安部 公房 1924年大正13年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉1月22日
荒木繁の二つ年下である。なるほど。 

これは大変評判を呼んだエッセイで、面白く読んだのだが、解釈というより村上作品を紹介する内容が大きかったように思う。それほど村上作品に親しんでいない私には重宝に感じた。

それと対照的なのが、👇の『ノルウェイの森』のレビューで、なるほどと思った。
村上の「読解」で何が「正当」かではなく何が「正統」かで食い違うのであるようだ。
それは村上の、内田の云う、「世界性」に繋がる。
分析的に考えれば『村上春樹いじり』の方が「正当」であるだろう。茶化すのが不愉快であったしても、言っていることには違和感がない。だからドリーへの非難は「人をバカにするな」と「存在」を呼び出すこととなる。
ヒトの「好感」を敢えて貶めてよいのかという、主観的「違法」問題を惹起するのであるが、これなどは、どうも「シャルリー・エブド」的な効用はあったようである。
村上春樹をバカにするというよりも、村上春樹の背負っているものに違和感を表明した効果があったようだ(自覚しているかどうかに関わりなく)。
村上春樹が「何も背負っていない」と言うなら、それは嘘で、ここでは「誰もが(それと自覚に関わりなく)何かを背負っている」ということではない。村上春樹キリスト教文学を「正しく翻訳できない」ということである。どうしても宗教を排除する翻案、乃至そのような(そのままを保てないという意味で)「習作」となる。そのような政治性のことである。政治発言ではない。排除の機序を持つがゆえに政治を持った表現となることである。或いは、戸田奈津子は批判されてやまないのに、なぜ村上春樹は批判されないのか、といったことである。

翻訳家が変な翻訳をして批判されるのは当然だと思っています。 制作者の意図をくみとり、それを私たちに限られた文字で表現するのが翻訳家の仕事ですよね。 仕事ってことは、それなりの責任もでると思っています。 特に彼女の場合、その作品の話がねじ曲げられるような訳も結構やっていますよね。

「戸田奈津子さんの批判をする人」の批判をしている人がよくわか... - Yahoo!知恵袋

ここで気を付けなければならないのは実証的であるかどうかだが、アメリカの場合はヨーロッパの実証主義とは異なるのであった。

ヒュームを引き継ぐ英米系の法実証主義は、法の存在条件を社会的事実に求め、価値の問題を「あるべき法」を探求する正義論へとさし回して留保するが、カントを引き継ぐ大陸系の法実証主義は、ケルゼンに見るように法の内的体系性において法の「(事実とは切り離されるべき)規範性」を強調する。

Wikipedia『法実証主義』)

村上春樹はおそらくただの無知であって、だから後ほど帝大出の「知恵者」河合に唆されて、一元論(流出論)を「神なくして」導入することとなったようだ。
『グレート・ギャッツビー』は回復契機を胚胎するが、それは村上春樹のような表現を持っていなかった。実にアメリカだからこそ表現を『社会的事実に求め』ていたのであった。彼が熱心なキリスト教徒であったかはこの際関係がなかったが、アメリカがキリスト教大国であることは疑いようがない。