長い前置き

 

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憲法のバトンは民法から商法へ引き継がれたのだった。』と前回言ったが、何が引き継がれたかについては「色彩論」のことであるが、なぜ引き継がれたかについては、「商法論」のことである。

 

法思想史』をいきなり読んでもよくわからないのは、説明論理(インタープリテーション)と構成論理(ロジック)が無分別に扱われており、混乱するからだ。

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こうなるとそのまま言語論になってくるが、説明論理には、ウチウチでの納得感がつきまとう。すなわち、(意味そのものというよりも)意味の取り方だ。「取り方」と明示したように、離れているものを引き寄せるときイメージの変化を伴う。

さてこのように考えると、明治期の学生たちの評判をなんとくなく理解できる。このようにして説明されてよくわからなかったとき、それが内容の(不適当な)所為だと誤解したのかもしれない。論理の選択の(不適当な)所為だったと思う。活き活きとした言葉遣いをするのは大事なことなのだ。

例えば「アウフベーヘン」という言葉があるが、
そして、ヘーゲルは、シェリングの成果に焦りを感じ「自分の哲学」を探していたのだった。この「自分の哲学」とはとどのつまりは「自分の語彙」であってその選択語彙群はおおむね準備されている。これに造語を付け足すこともあるが、なかなか活き活きとはしてこない。説明不足に陥りやすいのだ。今ある言葉の多様性を制限する方がコミュニカティブである。ドイツ人のアウフベーヘンをもちろんドイツ人のアウフベーヘンでありつつヘーゲルの「アウフベーヘン」に変える作業、それが哲学的思索に他ならない。反対から言うと、実は特段変わったことを言っていない。

さて、それでは、そこで謳われた『一元』であるが、実は、二元論(<鏡>)であって、自然法が一元論(流出論;<芽>)であるところそれを否定したのだが、(「一元」であることではなく)「元」であることを否定したために、二元論の方が『一元』となった除算が行われたに過ぎない。単純に、2引1和1なのであった。
そこでは、形式性を謂うのであってそれは正しいのだが、それ自体の独立の価値性(独立性:従属性の否定)を強調するあまり、すなわち、「元論」をぶつべきところ、「一元論」とフォーカスと余計なフォーカスをあててしまっているのだ。
分かりやすく言うと、ベクトル平面は、αe1+βe2と、一次独立な「一元」の交叉で説明される。これを「一元論」と嘯くのであるが、そのときに、「いや、そうではなく、その「一次独立」を成立させる形式性のことなのだ」と言うとすると、それは違う。
それは「言語」の形式性であって、法の備える「形式性」のことではない。だから、次に、そこでは主体論い移る。つまり、あくまで言語の内在的な形式性を取り出して利活用する行為論であって、行為として行われる法の陥穽を問うている文脈において求められているのであった。したがって、あらためて、、、、、その「形式性」がその文脈上で対峙して、、、、、否定的に強調されなければならなかったのである。インナートークである(ニュアンスが異なるが「楽屋落ち」と言えばよいだろうか)。
このとき、事後に行われる「否定」をあたかも「最初からそうであった」ような素振りで、あらかじめ行う前後の逆転を当然のこととするときに原理は立ち現われ、それが立論となる。それを受け取ってそのまま事後的に説明するのであるから、ハナシがややこしく聞こえるのであった。まとめると、

 対峙する自然法(流出論)を否定→(対峙する)一元論を否定→(対峙する)二元論の「二元」であるところを否定:対峙する「一元」をnull化→こちらの「一元論」を肯定→(こちらの)「一元論」を説明

その結果、読者が一元論と誤解する(そうではない、二元論なのだ)。そうでないと、なぜ、次に主体論が出て来るか不明である。そう、つまり、そこでは反対に謂うと、主体論を準備する必然性から「一元論」を説明しておいたのだった。すなわち、先ほども言った、「あたかも最初からそうであるように」説明するための前後の逆転なのであった。要は、便宜である。この便宜が理解できるかが分かれ道であった。

それでは主体論(行為論)で何を説明したかったのかと謂うと、主権国家を前提として法体系を再構成する必要があったのである。ここで「商法論」を思い出す。分離する特別の利益があったのである。何から?哲学からであった。
だから、ここでは、<鏡>と<芽>も「流出」も出てこない。「あたかも最初からそうである」かのように言わなければならないのは、それらがそこでの説明では禁句となったからであった。そう言ってしまうと、その説明自体が「流出」を肯定することとなる。だから「最初から」言葉を紡ぐ必要があったのであった。
でもそれは便宜的にそうなっただけであって、本質的には、<鏡>であると言っている。要は「形式性」であるが故の「再現性」なのだ。まさに<鏡>の<鏡>たる特徴(そのもの)である。
ここらへんの説明の仕方は、実は、フレーゲの事績の方がわかりやすい。わかりやすく記号化してしまったからだ。フレーゲの画期は「はじめて変数を導入した」ことであるらしい。これはまことにすごいことで、その再現性は価値中立を保障しているのである。このXがよくてあのXがダメなんてことは、形式の方の問題として取り扱われないと、すなわち「それは、別の問題だ」と宣言したのである。ニュートンがプリンキピアで成し遂げ、ダーウィンが進化論で成し遂げ、オイラーが座標論(関数論)で成し遂げた、目的論の排除であった。
さて、法のハナシであるが、法とは行為の意味体系であるから、科学のハナシとは受け取り方も異なる。「それは、別の問題だ」から考えなくてもよくなったのではなく、「それは別途考えます」となったのであった。だからこその二元論である。
考えてみればよい。「悪法も法」ならば「Xを形式に入れるとすべからく法を導出する」のであれば、Xに「道徳」を当て嵌めてもよいのである。Xにはそれくらい自由を保障するのが「一元的」な形式論であるはずであった。形式論とは実はまさに言葉の表現の問題に過ぎないとすることであった。つまり、表現を「表現」として  するか、表現であることの不可分性に着目するかのことであった。後者は、いわば「業源であるのだから、仕方がない」と宣言することである。一元論とはこの「仕方のなさ」である。それを<芽>では、外部に求めめらることが、内部に胚胎して直接の操作対象から除外されるのであり、<鏡>では外部に求めて、直接の操作対象外として操作対象とすることであり、すなわち、前者は主語として「仕方がなく」現れ、後者は述語として「仕方がなく」除外するのであった。前者は操作対象外だから操作対象外なのであるが、後者は操作対象外だから操作対象なのであった。後者は矛盾なのであるが矛盾でないのは、階層をなしているからである。(あくまで)ここでは、「わからない」というとき「わかる」と区分されてあることを言っているのであり、「わかる」というとき「どのようにしてわかる」かを言っているのである。その「どのように」の操作性を形式性と謂ったのであった。翻って一元論(流出論)の「わからない」はアンセルムスなのであった。一種の対角線論法で、わからないことが「言えた」のである。ゲーデルが晩年「神の存在証明」を実験したのはおかしくなったからではなく、不完全性の証明をしたからこそであった。「言えない」ことが「言える」のは形式的に、、、、大事なことである。ゲーデル不完全性定理は間違った使われ方をするので有名であるが、ここでも御多分に漏れずそうであるか、或いはそうでないかの保障はしない。
数学基礎論から始めなければならないからである。 

 

 スマリヤンはウィットに富みすぎて、「言葉遣い」の不分明さからくる問題の意味の(読者の)取り違えが起きやすいため、注意が必要であると思う。

さて、法実証とは、<鏡>であるから、それが<芽>であるかのように、主体が(主体自身のこととして)外部の「仕方がない」ことを(そのまま「仕方がない」こととして)あきらめて受け入れるのではなく(それを積極的に評価すると「色彩論」)、主体から、自身のことを主語、自身の行為を述語として取り出して「「仕方がない」」こととして(括弧にいれて)除外する方法を謂ったのであった。だから、(形式論をぶっているようで、内実)主体論であり、行為論なのであった。そしてそれはそうすることが求められた利益があったからであった(商法論)。

まことに法は神学論争から始めないとわからない。
「何を言っているのかわからない」とは、内容が難しいからではなく、そもそも語彙が足りず「それが何を指示しているのかわからない」のであった(ところ、さも「最初から」当然そうであるような言いぶりで説明するのであった)※。

そんなわけがない。
こうなると、初学者だから手に取る「まとめサイト」が初学者だから「わからない」こととなる。こういう場合のエクスキューズとして、その後の学習を案内しておくのが常識となっている(要は、「〇年ロムれ」と、その後に追加テキストに多く触れて語彙を増やせと言っている)。
だが、果たして、初手で躓いて二の手を踏まないなんてことがないのだろうか?

※この理解が極めて重要なのは、例えば、「社会契約説」がなぜ必要とされ、またなぜ、批判されたのかがよくわからなくなるからである。「それが事実でない」なんてことは提唱者も当然にわかっている。「いや、それはモデルだ」も半ば正しいが、半ば間違っている。「(それは自然科学のモデルではなく、行為論としての)制度モデルだ」というときに初めて正しい。すなわち、そこで否定されるのが、「自然」だからである(方法に依って主体を「主体」:主語:単位として取り扱う行為を述べている、再現的な<鏡>だからである。したがって、これは、記述モデルではなく、規範モデルである。しかし、それは道徳ではないから、規範性は「道徳」として括弧にくくられて外に出される。「約束を守れ」との規範はそれ自体で約束の内容を指示していないとき、そのような規範のことを言っているのであるから、「社会契約説」とは「「社会契約説」を守れ」(二重括弧)との言明を暗黙裡に構成する規範としてのモデルであった。だから、社会契約説とは本当は社会契約論であって、「説」としての事実の説明を否定しまた、<鏡>として「自然」の説明を否定している二重の否定の論法を採用したのだったのだから、「それが事実ではない」との言明は二重に間違っていることになる。その二重性に着目して再びひっくり返したのがルソーで、一元論で社会契約説を説明し直したのであるが、その後の  や  たちから「事実でない」と否定されることとなったーこのようにして、再帰性の応酬でよくわからなくなってくるのである。

まとめると、「社会契約論」として二元論に立ち規範モデル(「「約束」を守れ」との述語の共有)を提示したところ、規範を内部に取り込まれて一元論(「約束を守る」とは主体に不可避な規範の記述であり、不可分性の表現)として説明し直され、「そんな自然の事実はない」と反駁されたのであるが、反駁した当のベンサムが、「事実」と「当為」の混乱で名高いのであった。

フツウに聞いていると、「なんのこっちゃ」となるが、経緯があるのであった。
つまり、再帰的に語るのが常であるから、リーチが問題になるのである(何を再帰的に援用しているかという、ネットワークにおけるノード:点の「起点」たるところの「起」と「起点」たるところの「点(分割)」の二重問題ーすでに二重のあるところの問題ーである)。まことに「なんのこっちゃ」。

読んで「わかる」、聞いて(受講して)「わかる」ようなハナシではないのであった。
経緯が「経緯」であるところがまずもってわからないのであった。

そりゃ、上杉や筧の人気がないのも仕方がない。
「狂信的」「神官的」と言われても、或る意味「正解」なのだから、「仕方がない」。
そもそも法学は神学論争から始まっているのだ。
反対に美濃部が人気出るのも仕方がない。
法学(法律学)は、神学論争にさも当たらないような素振りで、新しく創出された学問としてピカピカだったからである。
ゆえに、美濃部には「一発屋」的わびしさが付きまとう。
「一発」当てたが、(一木という※)プロモーターにどうも利用されただけで(「小物感」)、その後「えらい人」として幾分かの光を放ってもカッコつきで扱われる(ヘボン寄付講座)、要は「過去の人」扱いされることとなった(枢密院)。

衆議院議員を父に持つ、それ以上に社会に報徳思想を広める父の子である、その後内務官僚となる一木は、並み居る士族出身の中で堂々と1番で卒業しておりー士族出身はいまだ社会のリーダーの供給源であって、富岡製糸場女工第1号の   も士族出身であった、卒業後は官界と学会を行き来するが(当時珍しいことでもなかった。)、そのため、定席である枢密院議長なったのであった(ただし、枢密院は伊東巳代治が取り仕切っており、議長席は伊藤博文でさえ「お飾り」であったが)。

官報. 1887年07月11日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

一木が内務官僚として何をしていたのか、どこまで出世したのか興味は尽きない。


上杉は、在野に下って、人に会い、群衆勃興の時代に各所でよいしょよいしょされつつ口先で煽って※、しっかり、平塚ライチョウに先立って(最新の)「女性論」をぶち、手ひどい負けを経験したにはしたが、そのまま早死にしてしまったから、落ち目をあまり味わわずに済んだ。
血盟団とかかわりが深いが、いわば講釈を垂れたのであって、事件後は追及をかわしたのではなかったか?語彙を勢いよく提供したが、事件を指示した具体性に欠け、教唆と謂えるのかどうか。なにしろそもそもが神学論争である。実践は別のタームであった。それに比べれば「女性論」は普通選挙を見据えての実践的意味合いもあった。遅れてきた志士然として快活であった。「明治は遠くなりにけり」と言えども、社会の流転はとどめようがなかったのであった。そういった意味では、上杉は、あくまで「地方の人」であった。
反対に謂うと、美濃部らが、明治の終わりとともに成し遂げた「中央の革命」は、地方都市或いは地方開発の勃興とともに、またそれとともにあった中央の流転の前駆が、美濃部から、相対的に、実態的に、力を削いでゆくのであった。美濃部を押し上げた力はもはや美濃部を必要としていなかった。それらはより具体的で鮮明な語彙を獲得したからであって、(語彙不足故に)柔軟に応ずる口説を必要としなくなっていたからであった。
残念ながら美濃部はもともと(学業成績はともかく)「(それほどには)大したことがなかった」のである。それが周囲や後輩には透けて見えたのだろう。
しかし、現在の「庶民」にはシンパシー抱かせずにはいられない。「庶民」にはいまだ神学論争は無縁だし、専門的な学習も「何するものぞ」だからである。いわば、「「庶民」の(「庶民」であるがための)シンボル」である。

「なじみやすさ」と「タイミング」。それだけでもプロはウケるのであった。
ただし、支援が必要である。内容ではない。


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もちろんみなさんプロとして素晴らしい方々ばかりです。

 

さていま幾何学を比喩に用いたが、ドイツ人の説明も現にそんな感じなのである。

 

マルクス主義法学がバトンを引き継ぐにもこの2つがあっただろうと推測する。