われらの時代に

 

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平沼が作った社債信託法とは果たして。
明治三十八年法律第五十二号 担保付社債信託法 

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これが英米法系の諸国において信託を契約と並ぶ一般的な法制度として発展させたおもな原因である。日本では1905年の担保付社債信託法によって信託思想が導入

担保付社債信託とは - コトバンク

その時代の申し子が山成喬六である。 

岡山県後月郡簗瀬村(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる[1][2][3]。十代で脳溢血を経験[4]。1890年に高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後[5]、大蔵省入省[2]。

山成喬六 - Wikipedia

明治23(1890)年卒業となっているが、
官報. 1890年07月19日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
いない。
山成喬六 (第8版) - 『人事興信録』データベース

明治24(1891)年、明治25(1892)年は卒業者名の公表がなかったのだろうか?
明治26(1893)年には、西園寺公成の孫に西園寺亀次郎と言うヒトが居て
官報. 1893年07月15日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
この人が高等商業学校(本科)を卒業している。
西園寺公望との関係はわからない

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穂積氏 - Wikipedia
穂積家 (伊予国) - Wikipedia
西園寺家 - Wikipedia

その高等商業学校がすさまじい。1890年は明治20年

1901年1月:関一・福田徳三・津村秀松・志田鉀太郎・神田乃武ら欧州留学中の高商教授8名、「商業大学の必要」を建議。大学昇格運動の本格化。

東京商科大学 (旧制) - Wikipedia

1887年、従来の東京商業学校を改編し官立「高等商業学校」として設立された東京高等商業学校(東京高商)は卒業生を対象とする専攻部を設置、大学への昇格をめざした。これに対し文部省は、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)に経済・商業2学科を新設、さらに東京高商専攻部を廃止しこの2学科に事実上吸収する方針を決定、同校の大学昇格を真っ向から否定した。東京高商側はこの決定に激しく反発、学生も総退学の意思を表明したため事態は紛糾した。

申酉事件 - Wikipedia

 『1907年(明治40年)には「商科大学設置に関する建議案」が帝国議会を通過』(上掲)し、その翌明治41(1908)年に東京帝大法科大学に経済学科ができたのだった。
ここらへんは元号の明記があった方が便利だし、理解しやすい。 

当時、台湾銀行の理事兼東京支店総支配人を務め、後年には満洲中央銀行副総裁として活躍した山成喬六(図2)は、日本の信託業を開拓した功労者の一人であった(3) 。

(3)この遣り手の山成君は大正三年頃臺銀 法を改正して投資信託を創始し、大正八年 には資本金一億圓の中央信託を計畫して流 産に終った經験も持つている。
(略)

台湾銀行による「信託預金」の創出と影響 ―大正時代の金融イノベーションがもたらした日本信託業の発展契機―
日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員 久 末 亮 一

『同郷人で縁戚にあたる大蔵官僚の阪谷芳郎(後の大蔵大臣、東京市長貴族院議員)の書生となる。東京高等商業学校を卒業後、大蔵省に入省。』(上掲)らしく「中央信託」の夢破れてからは『しかし、この後の山成は信託業で活躍 することが叶わず、東洋製糖社長などを経 て、1932年に満洲中央銀行の副総裁に転じ』らしく満州中央銀行の設立時の中心に居た(山成は副総裁を務めた)。 

満州国官吏養成大学院(ただし、修学期間は6か月)募集案内
官報. 1933年12月16日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 一方で 

明治27年(1894年)の日清戦争では大本営付で戦時財政の運用にあたり、戦後の財政計画も担当した[2]。明治30年(1897年)には大蔵省主計局長となり、明治32年(1899年)には法学博士の称号を与えられ、明治34年(1901年)大蔵省総務長官にまでのぼった[2]。

明治36年1903年)には大蔵次官となり、日露戦争では臨時煙草局製造準備局長と臨時国債整理局長も兼任し、軍事費の調達および戦後の財政処理を行う[2]。明治39年1906年)には大蔵大臣(第1次西園寺内閣)を務めた。

阪谷芳郎 - Wikipedia

この人の父親は阪谷朗廬というヒトであの大塩平八郎陽明学者)と昌谷碩(朱子学者)と古賀侗庵(漢学者)に学んだ人で、当時の学問を集大成したような観がある。
このうち大塩平八郎も有名だが、古賀侗庵というヒトがすごくて安積艮斎・佐久間象山・栗本鋤雲・重野安繹・原市之進・河井継之助を教えたらしい。
安積艮斎は吉田松陰岩崎弥太郎高杉晋作小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎を教えたらしい。
彼らとどれほどの親交があったかは知らないが、「開国総合大学出身」のような印象で実際「開国派」だったらしい。

ところが、彼の作った男爵議員による公正会が(、直接関係があるかは知らないが、)後に天皇機関説事件と数奇なかかわりをもったのは、時代を反映していたようだ。

1879年に帰国後は、福澤諭吉や目賀田と親しくし、慶應義塾夜間法律科の初代講師となった。その後、1880年6月に司法省附属代言人(弁護士)への就任を経て、同年9月に田尻・目賀田・駒井と共に、専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長ならびに初代学長を勤めた。

相馬永胤 - Wikipedia

相馬はミシガン農学校(途中帰国)、コロンビア法律学校(コロンビア大学ロースクール)で学び、エール大学大学院では経済学を修めたらしい。
専修大学は「6大法律大学」に名を連ねたが煮え切らず、時宜を得て経済系の大学へ転出したのであった。時代はかわりつつあった。憲法のバトンは民法から商法へ引き継がれたのだった。