男女共学化は語られない

熱中症とこの間から続くむくみに気を付けていたら、こんな時間になった。

今年こそはクーラー直さないと。

 

 「人間性の欠如」対「自己劇化」

学校で読んだのは、中学校だったか、高校だったか。「人間性の欠如」で習ったね。

自分はそれに疑問をもって、「自己劇化」を思った。

なぜ、これが「現代文」の教材としてとり上げられやすいか。

①「国語」の一貫性(「現代文」の創設)
「国語」創設時に倣って「現代文」を作ろうとしたこと(古典をモチーフに取る作品を取り上げる意味)。夏目漱石森鴎外らと同時掲載することで「国語」の一貫性を維持できる。芥川龍之介の『杜子春』なんかは小学生のころに読みやすく、そういった縦の流れもある。
②「読解」しやすさ
中国古典ゆえに、中国語の持つ概念を操作しつつ、それとは区別される日本語の特徴である接辞の作用が理解しやすい
③「戯画的」である
それが「戯画的」なファンタジーであるため、理解に外部情報を必要とせず、構成要素にしぼって理解できること
④「変身譚」である
変身譚であり、物語論上の意義がある。
⑤「会話劇」である
所謂「神の視点」を持たないことが、主体的な読みを先行させ、読者自身にその読みが響くこと(「水を差す」ことがない)。このとき、「信じられない語り手」といった技術も利用されて、語りに入り込みやすい。
⑥「劇的(講談的)」である
⑦ちょうどよい長さである
いずれも飽きられない。特に⑥は、『酔える』要素である(皮肉としても面白い※)。

※ここで触れられていないが、1950年に日比谷高校は共学化した。
東京都立日比谷高等学校 - Wikipedia

(1)増淵恒吉(1950)
「高等学校国語の教育課程」 とにかく,文学の指導法については,科学的な研究がなされなければならない。文学の読み方 や味わい方にいろいろな行き方,方法があるにしても,それらの基盤となり,公約数となるもの が考え出されてよい。

 増淵恒吉の文学教材指導理論に関する研究 P131

板倉聖宣の「仮説実験授業」、伊藤和夫の「構文主義」が昭和38(1968)年。 
増淵恒吉 - Wikipedia
なんと、増淵は、星(1926年生)や伊藤(1927年生)、板倉(1930年生)らより20歳ほど年長で、明治40(1907)年生まれじゃないか。

markovproperty.hatenadiary.com

 

 

例えば、似たような時期に読む、『ジキル博士とハイド氏』と比べるとどうか。

(これは中学生の課題図書になる作品だったか?)