芥川龍之介の克服

算数の問題は「超限帰納法」を考えているが、暑さで進まないような気がするが。別の理由だろうか。 

 

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山月記についてです - 李徴の詩の欠けている所はどこでしょうか一般... - Yahoo!知恵袋

 

なぜか『山月記』はちゃんと読まれない作品らしい。

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人間って、「違和感を覚えること」には気をひかれるというから、そのせいかもしれないね。教科書に残り続けるのは。

増淵も中島も国文科卒か。まぁ、いい。

これは「信じられない語り手」の物語だから、最初は話者の矛盾を丁寧に拾った方がよいと思う。
芥川は『羅生門』で失敗したと思ったらしい。中島は『山月記』で成功したと思えばいいんじゃなかろうか?『藪の中』の読み方をそのまま『山月記』に持ち込んでよいと思う。
あと似たような雰囲気を持つのは『雨月物語』だろうか。

ラビノウィッツの論の主な焦点はフィクションの中の言説の地位であり、事実性ではない。彼はあらゆる文学作品の受け手の役をする読者を4つに分類し、フィクション内の真実についての問題を論じている。

実際の読者(Actual audience, 本を読む、肉体を持つ現実世界の人々)
著者の読者(Authorial audience, 現実世界の著者が書くテクストの宛先である、架空の読者)
物語の読者(Narrative audience, 詳しい知識を所有する、模造された読者。物語内の「語り手」に対する、物語内の「聞き手」)
理想の物語の読者(Ideal narrative audience, 語り手の言うことを受け入れてくれる、批判的でない読者)

信頼できない語り手 - Wikipedia

 『羅生門』の構造は先に語られた内容が後に語られたものに否定されるところにポイントがある。つまり、矛盾だ。「矛盾」というと一言で住んでしまうが、要は、先に語られた内容と後に語られた内容が一致しないことで、言いかえると、Aかと思えばBである、Bかと思えば。。。。

むしろこれが大事で鼻以下と思う。『雨月物語』でも示された円環である。この構造を踏襲していると仮定する。

語り手は3人。作者、主人公、友人である。この3人で、上の構造を例示する。

【作 者】
『ついに発狂した。或ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何かわからないことを叫びつつ
【主人公】
『ふと眼めを覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻しきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。』

【作者(友人)】

『後で考えれば不思議だったが、その時、袁サンは、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。』

 

その後、主人公は過去の自分と現在の自分を重ねつつ、「信じられない言葉」で心風景を彩ってゆき、この物語の最後で、「声」こそが主人公(の人間たるところ)であり、「存在」(乃至「行為」)が人間を担保していなかった。人間の言葉を失った存在が一行に姿を見せて去ってゆきこの話は終わる(彼のまったき虎としての今後を想像させながら)。
しかし、それはおかしいではないか。彼が『狂人』であったなら、その言葉が信じられないのだ。確かに彼自身が、「人間を失うとき」に残虐な行為に出て後から苦しむと言ってのけたのだ。なぜ、最後は、人間を失わなかったのか?

これは話者と聞き手が「声」を受け入れて成立しているのだ。
しかし、『遺稿』が声となって朗々と響いた詩には何かが欠けていると評価され、ただ黙々と作者から提示された詩は、ただ在るだけである(評価されない)。

 

芥川の『藪の中』を読んだときに、ソリトンを思い出した。
玉つきである。しかし、あれが円環状で運動を繰り返すと、錯覚でそっくり玉が入れ替わるように見える。それを想像したのだ。
これは「重ね合わせ」であると。
しかし、芥川は失敗したと言ったらしい。
中島は成功したと思う。
ここに(「現代文」は)明治の小説を克服したのだ。 


くだらない問題だと、最後の詩の評価を読者にさせる。
まったく台無しだ。

また、李徴が語る虎へ変身した理由の告白が自己劇化された語りであるとする蓼沼正美の解釈もある[6]、山下真史も、虎に変身した理由を語る李徴の挫折の嘆きに自己劇化が見られるとして、そうしたナルシシズムを含めリアルな人間像が描かれていると評価している

山月記 - Wikipedia

 「信頼できない語り手」なので、たとえば演技性パーソナリティ障害でも構わない。
ただ、それが『リアル』であるかどうかはわからない。
つまり、増淵にしろ、単一の人間像に対する強固な信頼や信念を失わないのだ。
だから、主人公が極めておかしなことばかり言っても、まともな言葉の方を選択的に信じてしまう。そう遠サンがいみじくも言ったように、『実に素直に受容れて、少し怪しもうとしな』いのだ。それどころか積極的に補強する。
その一例が、詩に対する評価を問うことで、それは回答者への「踏み絵」となっている。遂に。。。。か。。。