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 第163回芥川賞全候補作徹底討論&受賞予想。マライ「破局」遠野遥イチ推し、杉江「首里の馬」高山羽根子今度こそ。太宰治孫候補作で激論

奇妙な解説で 

 『破局』はまさに、『信頼できない語り手』によるもので、もっとはっきり言えば、『フランケンシュタイン』(で焦点となった存在論から離れて)の認識論的展開で、だから、最期は『祈る』のだろうと思う。
おそらく、ポストモダンとは何か、が背景にあって、自分は文学以上に政治学に興味があるから、それはおそらくアメリカのロールズ『正義論』以降の話だろうと思うのであるが(ロールズのわずか3か月年長である、『トロッコ問題』の提示で有名な倫理学者、フィリッパ・フットの仕事も含まれるだろうと思う。)、つまりは、モダンをポストキリスト教社会と捉えたうえで、神に変わって社会そのものの善へ向かう自律性、もっと言えば、人格神による泥(対象物)から自由意志による人格を得た人間の社会秩序の話である。それを「主体性」と呼んだだけであって、ポストモダンは、(前キリスト教社会→)キリスト教社会→ポストキリスト教社会=モダン社会→ポストモダン社会のアナクロムであるが実は、キリスト教社会→ポストキリスト教社会=モダン社会→ポストモダン社会→キリスト教社会のトリレンマを為しているのだろうと思う。即ち、予定説と自由意志の問題であり、無限と分割の問題であり、決定問題である。

そのうえで、つまり、神への祈りではなく社会そのものへの信頼を問い、上掲『批判理論入門』では説明しきれていない(キャラクター分析のみであるので)、心理学上の説明ー個性の説明要素、キャラクター/パーソナリティー/テンパラメントから補足したらよかったと思う。

 

要は、基本的な分析理論を理解していなければ、評者は務まらないのではないか、と思った次第。
なお、(本家)フランケンシュタインも異性のパートナーを欲して、どうなったか、ということも、比較の対象になると思う。

作者が「信頼できない語り手」というものを、意図的に用いるのはなぜだろうか。ディビッド・ロッジは、小説が読者を引き付けるためには、それが現実世界と同様、真偽を見分けることが可能な世界であるべきで、信頼できない語り手を用いることによって、見せかけと現実とのギャップや、人間というものがいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかということが、露わになるのだと言っている。ロッジはカズオ・イシグロ(Kazuo Ishoguro,1954-)の『日の名残り』(The Remains of the Day,1989)を例に挙げて、この小説の語り手スティーブンが、イングランドの大邸宅の執事であった日々を回想する内容に対して、そのもったいぶった堅苦しい口調が不適切であることに読者が気づき、それが欺瞞と自己正当化と弁解に満ちていることを見破ることにこそあると、指摘する(Lodge,pp.154-155) 

ー『批判理論入門』PP.27-28

小説の技巧

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日の名残り (ハヤカワepi文庫)

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 もちろん『批判理論入門』では、想定される読者についての分析も説明されています。