パンを食うくらいなら                                                                脚気論争から大衆時代へ

 

markovproperty.hatenadiary.com

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美濃部が頭イイ、頭イイって云われるもんで、ホンマかいなと思って、比べてみようと思ったら、よくわからない。
ただ、この時代はやっぱり社会主義をどう咀嚼しゆくかが中心の関心であったのであって、上杉はキリスト教からギリシャ哲学に入って行ったのはよくわかるのであるが(だから、日本で最初に『資本論』を翻訳した共産主義者(後、国家社会主義者)高畠 素之(同志社大学神学部中退)とも胸襟開く間柄となり、やがて同士となったのだろうと思う。)、美濃部はよくわからない。議会操縦の手腕を見ても、「試験秀才」のようなーいや、アンチョコ上手と言おうかー要領の良さを感じる。
それが、"人口が倍になる"時代趨勢において、遂には説得力を失っていったのではないだろうか。美濃部の巧言が、大衆にどれほど響くだろうか。理解力以上に面目という意味合いに於いて。議員、官吏とは勝手が違うだろう。
美濃部は"ブリーフィング"の達人(役人の鑑!)であっても、演説の達人(弁士の鑑)だったろうか?また美濃部はアンチョコ作りは上手くても、理論的神髄に本当に到達していただろうか?
「頭の良さ」にもいろいろあるようだ。
ちなみに、森鴎外は9歳時に15歳相当の理解力であったそうだから、単純計算で(決して正しい判定方法ではありません。)IQ167ほどはあったのだろうか?のようにも思ったりもするが(さすが、と言えばよいのか、東大最年少入学記録保持者と云われる。)、時代の証言者であっても、医学者としても文学者としても、論争的であった以上はなさそうである。

官報を読むだけでもなかなか大変で、未完成である。

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