読解力と英語の構文

「アミラーゼ問題」

ボクは新井紀子のことは疑っていて、この「アミラーゼ問題」も「東大生が解けない」というのはかなり疑問だ。
というのは理由があって、東大生なら、『原仙』くらい知っていると思うから。
で、『原仙』の経験者ならば、"絶対に"解けると思う。
『原仙』最初の10日間は、まさに、このような短文問題を英文で理解することに費やされている。ここでは、文章を単語の足し算と見なして、基本文型に枝付けする構図を採用している。

アミラーゼ問題を解いてみる。

アミラーゼという酵素グルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

 

アミラーゼ(という酵素)は/(グルコースがつながってできた)デンプンを/分解するが、(同じグルコースからできていても、形が違う)セルロースは/分解できない。

文の種類  :複文(主語+述語が並列配置)
文型の種類 :Ⅲ(S+V+O)
文章の効果 :対比

アミラーゼ + 分解する(できる) + デンプン
酵素                 |グルコースがつながってできている

アミラーゼ + 分解できない    + セルロース
                    |グルコースからできている
                     |デンプンと形が違う

これは、たしかに文章読解ではあるが、英文読解と同じである。
新井は、特殊な文章を読ませている。
もちろん、それに意味がないわけではないが、「読解力の低下」を嘆くより先に、人間の認知の傾向と(自然な)バイアスを読み解く方が先だろう。
新井の「提言」はまったく無駄である。
高IQを巡る諸問題でもそうだが、我々は往々にして、学習効果と認知傾向を混同する。なぜなら、学習効果は、起点を消失して受け取られる(あたかも、最初からそうであったと思いこむ)認知傾向を持つからだ。
「アミラーゼ問題」のような文章を淀みなく読むことができるのは学習効果であるが、そのようなテキスト分析※が行われなくなった経緯を無視し過ぎで(もちろん、それは独立の問題として打ち立てることができる。)、実は高須院長と似たような、かつてのエリートへの郷愁傾向を持っているのではないか。

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言文一致というが、文章を読むような日本語を話す人は本当に居るのか。
むしろ、日本語文は、英語文を目標に作られたのではないのか。

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ボクがこのような問題で気がかりなのは「読解力の低下」ではない。
所謂「受験英語」は自分の場合はなんやかんや言って英語でのやりとりでの実践に役立ったのもあるがそれ以上に、言葉の足し算という構文概念が、法文理解に役立った。つまり、国語は英語の陰画でその補色として現れるからこそ、英語受験のオープン化が進まないのではないかと思っているのである。英語もそのような英語でなければ困るのであって、英語がいかにも英語的であってもらっては困る。その受け取り方、理解の仕方自体が。
そもそも東大は秋受験を呼びかけ、留学を勧めていたのであるから、受験英語などという特殊な ではなく、すぐにでも留学できる英語を学ぶことを勧めるのが合理的ではないか。むしろ、国際英語受験のディファクトスタンダードを呼びかけても良いくらいである。なんども言うが、バカロレアに出来て、英語受験に出来ないのは不合理である。それはひとえに国内の政治問題だからではないのか。