エロ、ジャズ、左翼

 

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というわけで、『村上春樹いじり』で最低評価を付けたレビューを読んでいる。
村上春樹をどう読みたがっているかわかるかもしれない。
まずだいたい最低評価を見るようにしている。

 

 

A『村上春樹氏の著書は世界中で翻訳され愛され読み継がれています』(Yamang)
A『村上春樹をエロ、ジャズ、左翼と片付けるとみんなから誉められる』(LMJ)

B『大変情けないことに自分の無い』(Amazon Customer)
B『村上作品の深い部分』(Amazon カスタマー)
B『言葉の本質やその意味』(プロパンガス)
B『言語化出来ない心の深いところで、それを経験した(共有した)という確かな感覚がある。それはたぶん自分の中にあった物語が共振した』(野菜系)

C『「ノルウェイの森」の書評、あるいは村上作品に登場する若い主人公に通じる突っ込みどころ』(gans)
C『タダの突っ込み』(upup)

 

なるほど。自分にはよくわからないが、よくわかる人たちは居る。
Aは、村上作品乃至村上本人の周辺事実である。
Bは、村上作品の内容に関してである。
Cは、村上作品の構成に関してである。ドリーに対するケチだが、反射的に村上作品の何かしらを評価していると思う。

Cは、『突っ込み』と言っているが、揚げ足取りだろう。それを「突っ込み」と敢えて言うことでどのような効果を得ているだろう。これはドリーをけなしているのだから、それがわかるようにココに表現されているはずである。すなわち、『どころ』であり、『タダの』であるだろう。積極的なアクションの対象(『どころ』)となっているが、効果的乃至有意味なものとなっていない(『タダの』)ことなら、粗さがしをすれば不適当或いは不自然な個所が当然見つかるのだろうか。
村上作品の価値は細部には宿らないと考えてよいだろうか?
では何だろう。

村上作品は世界中で翻訳されているらしい。それはよいとして『愛され読み継がれています』。うむ、村上春樹自身も、愛し読み継ぐために、翻訳しているが、あまりに原作のイメージを「自分のモノ」としすぎなきらいがある(ディズニーに見解をうかがってみたい)。その場合、つまりは村上春樹の「村田の突っ込み※」を受けて、誰が愛されていることになるのだろう?いや、村上は「突っ込んだ」事実を隠している。
とろサーモンの村田は「間」でボケを彫琢する。要は、無視するのだが、「無視をする」間を取る。
係る環境から言って、村上春樹が「左翼」と言われることに違和感がないのは、おかしいだろうか。少なくとも村上はその社会文脈に十分呼応する意図を以て作品を書いていると思う。ただの正直者なら『グレート・ギャッツビー』はどう転んでもああはならない。本当に「読めない」ならまだしも普通に読めばキリスト教を無視できないのであるから、それを排除するのは『リスペクト』を欠いていると評価されても不思議ではないが、彼の政治性ゆえだろう。ならば「左翼」ではないのだろうか?(ここで「左翼」とは定義のことではない。『言語化出来ない心の深いところで、それを経験した(共有した)という確かな感覚』のことである。)

なんのことはない。ここまで見た限りでは、やはり「民族語」(乃至「世代語」)であって、相互参照することで意味を認め合っているひとつの行為様態である。

僕はここで彼らを揶揄っているのではないし、ただ、、突っ込んでいるわけではないつもりで、おそらく彼らはすごく大事なことを言っている;いや、すごく大事な言い方をしている。すなわち、「エモい」と言いたいのだろうと思う。
「エモい」とは何かといわれても困る類の「無内容語」で、使って互いの反応のうちに、共感の  がなんとなく  「無排除語」なんだろうと思う。つまり、「『エモい』とは何か」ではなく「『エモい』とはどうか」で、経験(真似)されるごとに使われるシチュエーションが揺れ動く。揺れ動くことによって「無排除」を達成している。
そういったことが大事なのだろうと思う。
そしてそれは彼らの専売特許ではないことが鍵で、それは()付けされて内容がブランクであるから、「左翼()」でもよいのが特徴だ※。使うシチュエーションで彼らの「生活」が定まる発話行為が本質だ。つまり、そこで謂われているのは、内容ではなく、行為(そのもの)だ。このとき、互いに同じような発話行為を持っているのにかかわらず「あいつらとは違う」と言いうる。それが「リスペクト」だ。

※これを村上ファンは絶対に非難できないのであって、現に村上春樹本人が、"hot water"を「水()」として翻訳しているのであった。

傍から見ると、同じじゃねえか、と見えるのであるが、当事者たちにしてみれば「明らかに異なる」のである。彼らにとって本質的に大事なのは「当事者(主義)」であるだろう。
すなわち、〈当事者として〉〈互いに〉〈真似をして〉〈発話する(こと自体)〉が大事なのだろう。
アンセルムスは何をしたか。彼らは何をしたか。なるほど言葉に関わることである。

 

問題はここからである。
鈴木三重吉と比較し、場合によっては『ノルウェイの森』の書評も見てみたい。


それにしても『エロ、ジャズ、左翼』とはナイスキャッチコピーである。