ダビデとソロモン親子の会話

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コリントの信徒への手紙一 10章15節

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学校法人 聖書学園 千葉英和高等学校
新入生歓迎礼拝説教「 礼拝ー傾聴と内省 」

人の子とは、何者なのでしょう。

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【冒頭の引用】
僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
  (『グレート・ギャツビースコット・フィッツジェラルド
                村上春樹訳 中央公論新社

In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I've been turning over in my mind ever since. ‘Whenever you feel like criticizing anyone,' he told me, ‘just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you've had.'
  (『THE GREAT GATSBY』F.SCOTT FITZGERALD
              PENGUIN MODERN CLASSICS)

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どうも村上春樹は聖書を避けたがるのではないかということがある。
この有名な冒頭文の中心にあるのは、フツウに考えて、remember であるだろう。
それと照応しているのが criticizingである。
そこでremenberと言えば、

Hamlet ハムレットを読む 対訳 原文

で、『グレートギャツビー』でも、「知恵の目」の比喩が重要な場面で使われるのであるから、フツウに考えて、コチラ寄りになるのではないかと思う。

1ドル札の裏面のシンポルは何を意味していますか。目とピラミッドについて教えてください。|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN
プロビデンスの目 - Wikipedia

そして、だからこそ、ラストの文章の感動を呼ぶはずである。『緑の光』はただ薄ぼんやりという機能的な強弱の意味ではなかろう。『光背』の隠喩である。そう理解すると、冒頭文からラストまでの芯が通ってひとつの物語として違和感なく読める。
村上春樹にとっては、自分が感動したことが大事で、それ以外はどうでもいいような印象を受ける。村上春樹がこういう気分で「丁寧に」翻訳するのは初めてではないのだ。 

この本は一つの意味に拘っていないらしいので、どちらが正しい(訳)とは言えない。ただ、村上春樹は、従前の訳に(「正しさ」から考えて)違和感を抱いたことが、翻訳の動機となっている。そのことが大事だ。本当に「正しくない」のだろうか?むしろ反対に『グレート・ギャツビー』の村上訳に際立った日本的なものを感じてしまうのだ。村上春樹が「特徴的」な翻訳をするのは、ほんの些細な日常語においてすら、フツウのアメリカ人と異なる語感を抱いていることからもわかる、とは、以前述べた。hot waterである。本当に些細な事である。それでも日常的なことである。
グレート・ギャツビー』が謂っているのは、村上春樹が望んでやまない「僕の物語」ではなく、「神の導き」であるだろう。つまり、「理性」の問題であって、すぐれて近代意識に繋がる問題だ。アメリカはもっとも進んだ近代国家であると同時にもっとも大きなキリスト教国家でもあったのだ。もちろん多様な国家であって、キリスト教よりも「市民宗教」の方が影響が大きいと感じる人が少なくないかもしれない。それをうまくライトな感じでアレンジしてあるから、アメリカ文学の傑作となったのではないだろうか。そして、それはどうも、村上春樹のうかがい知れないことであるようだ。
彼はきわめて「日本的」な資質の持ち主なのだ。 

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シェークスピアが(北欧神話への郷愁というフォルムを採る)イギリスの建国神話をキリスト教から再構成したように(そういった意味で、大陸からの支配の克服という裏の顔を持ち、それがカトリックとデモクラシーの緊張に近代まで引き継がれてゆくと思う。)、近代的個性乃至近代国家的個性への希求に関わってキリスト教の果たしてきた役割を無視しているような印象を受ける。『グレート・ギャツビー』もまた、「現代のローマ」たる、たろうとしている、アメリカの建国神話のキリスト教からの再構成という意味合いが見えて来る。ローマのペトリウスが書いた『サテュリコン』が元ネタだったらしい。しかし、それは書き替えられた。
そしてこの物語では「信頼できない語り手」がこの「書き換える」作業に関して本質的な意義をもっているらしい。しかし、それは驚くべきことではない。
冒頭文ですでに宣言しているからである。

Whenever you feel like criticizing anyone,' he told me, ‘just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you've had.'

あれやこれや自分のうちに引き取って何が正しいかを深く考え、分別して判断したくなったときには、ほかの人は、お前のような「正しさ」に関する思慮深さを欠いて、偶像崇拝的なのだと。でも、それを思い出しなさい。思い出すことが救いだ。
そう考えると、或る「建国神話」に根差した、自己形成の一般的な物語、どちらかというと、訓話に近い印象を受ける。聖書を面白く読めると言った方が良いか。
村上春樹の文からは完全に剥落した観点である。

👇キリスト教の希望
希望 - Wikipedia

👇希望と永遠の命
Laudate | カテキズムを読もう/聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)

👇永遠の命と緑色
クリスマスカラーの赤と緑のいわれは何か。 | レファレンス協同データベース 

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。 年を追うごとに我々の前からど んどん遠のいていく, 陶酔に満ちた未来を。 それはあの時我々の手か らすり抜けていった。 でもまだ大丈夫。 明日はもっと早く走ろう。 両 腕をもっと先まで差し出そう。 ・・・・・そうすればある晴れた朝に

だからこそ我々は, 前へ前へと進み続けるのだ。 流れに立ち向かうボー トのように, 絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

(『ギャツビー』, pp.32526) [下線筆者]

こうして彼はジェイ・ギャツビーなる人物を創造した : 『グレート・ギャツビー』再読
小野 良子
(原山煌教授退任記念号 Philip Billingsley教授退任記念号)掲載誌 人間文化研究 = Journal of humanities research, St. Andrew's University / 桃山学院大学人間文化学会 編 (4):2016.2 p.5-35

CiNii 論文 -  こうして彼はジェイ・ギャツビーなる人物を創造した : 『グレート・ギャツビー』再読 (原山煌教授退任記念号 Philip Billingsley教授退任記念号)

小野先生はこういう方👇らしい。 

小野 良子 | 桃山学院大学教員データベース | 桃山学院大学 | St. Andrew's University
教員紹介 - 桃山学院大学 学部・大学院

イギリス演劇を研究されていて、シェークスピア研究の業績が紹介されている。 
やはりシェークスピアとの比較がよいと思う(この先生はそうして読み直したとは言っていない)。「(絶え間ない)再構成」に関する話で、それにキリスト教が根深く関わってくる。「絶え間ない再構成」であるがゆえに常に「未完成」な自己を想起する。それは村上が主題とするようなイメージというよりもむしろ、1ドル紙幣のハナシであるのではないだろうか。
だからアメリカ人にことのほか受けるし、アメリカの生徒の必須読書となっていてーさしずめ「アメリカのシェークスピア」だー、『山月記』ではないが、だんとつの採用数を誇るらしい。
そう『山月記』のテーマ、というよりも「『山月記』授業」のテーマである、「信用できない話者」の理性に基づく「自己形成」の物語だ。そして、それが、建国神話に関わる。
そして、村上春樹が、そうは読まない、そうは読めないことが重要だ。
そして、村上春樹のもうひとつの特徴である「世界語」を考えてみることが求められるようである。それは特殊日本的な「中央語」の再生ではないのか。

村上 春樹は1949年1月12日(昭和24年 - )生まれ。荒木が授業研究を発表した年である。
荒木繁の「民族教育としての古典教育―萬葉集を中心として―」が昭和 28 年(日本文学協会第 8 回大会)為されたことに対峙して、増淵は『指導の公約数』(昭和25年:1950年)から『確かな国語力』(昭和31年:1956年)へ軸足を移してゆく。
村上春樹は神戸に住んでいたと思うが、そのころの高校生だった。そして村上の父は国語教師であったが、どうも反発していたのではないか。どういう授業をしていたのかまことに興味深い。村上春樹の父は、増淵派(旧制高校的教養教育)だったのか、荒木派(革新的民主・民族教育)だったのか。また増淵の「世代語」として「構想主義」(『どんな構想になっているのか』ー1955『高等学校における実践』から;「大東亜戦争」観:主体論・行為価値論との近さ)に着目したい。

村上春樹の『グレート・ギャッツビー』は翻訳ではあるが、翻案とも言え、それが悪いとも言えないが、原作を離れて「もしも○○が『グレート・ギャツビー』を書いたら」という趣がある。それは好事家の遊びであって、文芸作品の「翻訳」と理解すべきかどうか。つまり、他の翻訳と同列に比べてよいものかどうか迷う「企画性」が際立つ。
困ったことに、村上春樹本人にその自覚が全く欠如しているらしいことだ。すなわち、古典的教養であるが、たくさん文芸書を読んだかというよりも、その裏にあってサロンでの会話に困らないはずの「哲学」がまったくないことである。あれば、河合隼雄に泣きつかない。そんなものただの一元論だからだ。それを当然に踏まえたうえで「あたかも最新の理論」のように語る「如才なさ」が「口説」というものであるが、そのようなことが村上には理解しかねるらしい。新渡戸稲造の『武士道』を読んで「あれは間違っている」というのは確かに間違いではないが新渡戸には響かない。そんなことわかっているからだ。新渡戸はヨーロッパでは「そういう言い方が響く」と知っていたに過ぎない。大切なのは「響く」ことであって「理解する」ことではない。相互に参照しあって頷きあえればよいのである。そうすると「こいつはどうも「わかっている」ようだ」となるに過ぎない。
難しいものである。
本は「ただ読めば理解できる」ものではないことを示唆するからだ。村上春樹はもちろん読書家であるだろう。 

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興味深いのは、nativeはそれへの言及がないことだ。気にしていないのかもしれない。

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つまり、(そもそも)観点乃至論点が異なるのではないかということ。

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フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド
                           明治29(1896)年9月24日 - 昭和15(1940)年12月21日
増淵 恒吉         明治40(1907)年11月 - 昭和61(1986)年2月12日
荒木 繁               大正11(1922)年 - 

改正高等学校令により1919年(大正8年)から高等学校入学資格が中学校第4学年修了となり、場合により中学校第5学年に在籍せず16歳以上から高等学校への入学が可能となった。

日本の学校制度の変遷 - Wikipedia

 所謂「四修」であるが、増淵はどうだっただろう?そういえば、増淵が旧制高校へ入学したかもしれない16歳の年に、荒木が生まれている。そしてそれは

教師教授者中心の注入主義の教育を旧教育と呼び、運動支持者の始めた子女・子ども中心主義の教育を新教育と呼んだ。

大正自由教育運動 - Wikipedia

増淵が(旧制)中学、(旧制)高校の時のハナシである。
荒木が18歳の時に、フィッツジェラルドが死んでいる。

1938年は興味深くて、5月に国家総動員法が施行、8月にヒトラーユーゲントが来日している。16歳の1936年には美濃部が刺され(2月)、スターリン憲法が制定されている(12月)。

ヒトラーユーゲントについては次のように語った。「私はあらゆる階級の青少年が共に学べる場をつくろうとした。それは貴族階級の子供だけでなく、労働者階級の子供もいる青少年国家だ。したがって最高指導部は青少年の生活に関心を持つ全ての省庁に代表者を送り込むことができた。我々は全ての青年に年18日の休暇を与えようと奮闘し、成果を上げた。これらの目標を達成できたのはひとえに若者の力のおかげだ。全ての立法機関には若者自身のコミュニティからやって来て青少年問題に取り組む者がいたからだ。

バルドゥール・フォン・シーラッハ - Wikipedia

ヒトラーユーゲントは日本で言うと「青年学校」のようなものだったのだろうか?、もとはカトリック系だったらしく、親もしくは自分が失業者の労働者階級が多かったらしい。

また、明治末期から大正年間に掛けて行われた青年団の振興政策とリンクし、これら勤労青少年の社会教育機関として定着して行ったことによるものと思われる。
特に農村部においては、現代と違い機械化も進んでおらず、人手の欠かせない農繁期などを踏まえ、中等教育機関へ進学することができなかった事情とも相まって発展したものと見られる。

青年学校 - Wikipedia

ドイツは敗戦後の混乱があって、失業問題がクローズアップされるが、日本の「成年学校」は失業訓練ではない。反対に勤労青年を対象としていたが、様々な階層ーというとあまりに「都市的発想」で、農村社会の実相を捉えているか疑問に感じるが、様々な属性の者へ社会参加を、大上段に構えずに、実践的に促していたのではないかと思う。
ちなみに、都市部にあっても、『与太郎』こと  は、青年学校出身である。
明治42(1909)年生まれの東北の大地主の子太宰治が四修で卒業することになる(旧制)青森中学へ入学したのが大正12(1923)年である。
太宰は『走れメロス』(1940年)で他人(井伏)を走らす人でなしがついには『人間失格』(1948年)してしまったようだ。

1928年 5月 - 同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、「辻島衆二」名義で『無間奈落』を発表。

太宰治 - Wikipedia

『細胞』が『辻』を伝って『島』に着き『衆』になり、そして『奈落』とはどういうことだ。なんだろこの「太宰感」は。
この時代はダダイズムの時代でもあって、終わるのが1924年シュルレアリスムの始まりとともであったらしく、一方『グレート・ギャッツビー』は1925年に出版されたらしい。シュルレアリスム

理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した[4]。シュルレアリスムジークムント・フロイト精神分析カール・マルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。

シュルレアリスム - Wikipedia

であって、村上春樹は、ユングに傾倒したようにこちらの立場に近いようである。ユングフロイトを同じ扱いにしてよいかわからないが、少なくともフィッツジェラルドはこちらの方ではないだろう。シュルレアリスムフィッツジェラルドが同時期に別方向に向かったのは、村上春樹の理解に役立ち理想である。少なくとも村上春樹は『大きな木』の従前の翻訳にあった含意を踏まえた態度には違和感を覚え、愛してやまない『グレート・ギャッツビー』の主述(remenmber)をないがしろにしている(丁寧に訳したにも関わらず!)。フィッツジェラルドが本当にユングの影響を受けるとでも思っているのだろうか?
ユングは一元論の伝統に沿っている。それを「一元論」と思わないのが村上ではないだろうか。なぜなら彼は(高踏的な帝大を出たわけでもない、一般の)日本人だからである。

 

 

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