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下呂のイクロー
5つ星のうち5.0 小説を深く楽しく味わうための美味しい批評が満載
2012年4月16日に日本でレビュー済み

司馬遼太郎太宰治との比較は、目から鱗の鋭い分析だ。村上春樹が世界性を持つのはなぜかという深い問いがこの書物には伏流しているが、「父の不在」「欠如感」という指摘に肯かされる。「村上春樹の小説には激しく欠けているものがある」と早い時期に指摘していた文芸批評家の加藤典洋を、著者は高く評価しているが、謎に満ちた村上春樹の物語を深く楽しく味わうためにも、この二人の批評には目が離せない。 

村上春樹の小説には激しく欠けているものがある」のは当然、聖書に根差した古典的教養以外にどうしても考えられないが、それを彼らは『父の不在』『欠如感』と説明する。やはりここでも説明論理(説諭;非議論)だ。
それは必ずしも勘違いではないから困ったことである。ローリングストーンズの『悪魔を憐れむ歌』に欠けているものがカンドンブレの何かしらであるのは誰かならわかるのだろう(ラジオの1コーナーで聞いて知った。)。どうも雰囲気で終わっているのだが、それが「ストーンズサウンド」としては粒だつのだから仕方がない。本人たちも(できないから止めるのではなく、できないが)あえて演っているらしく、わかっている人が聞くと、カンドンブレのリズムが刻めないからなんとかサンバっぽく誤魔化しているのがやっとで(サンバもカンブンドレのリズムで演奏されるらしい。詳しくは知らないが)、正味のハナシとしては、カンブンドレとは言えないらしい。でもそれがポップスだろう(BTSの『ダイナマイト』をプロのバレエ―ダンサーが踊ってもオーディションに通らないことをyou tubeで知った。観点が異なるのだ)。ラジオでは、地元の老舗カンブンドレバンドがお手本を示した同曲を流してくれたが、なるほどこれは「全く異なる曲」だ。しかしこれでは、どう捻ろうが、「ストーンズ」にはなりそうにない。相容れない様式美があるのだろう。

例えば、チャーリーのドラミングは、リズムこそ異なるがケニー・クラーク(en)が「チュニジアの夜」で演奏したラテンジャズの奏法を用いている

悪魔を憐れむ歌 - Wikipedia

村上春樹はどうだろう?『父の不在』がコンゴで、『欠如感』がマラカスだろうか。相容れない様式美があるに違いない。

問題は、村上春樹が、コンゴを叩き、マラカスを振って、何をやっているかだ。まさか『マツケンサンバⅡ』だろうか。確かに完全に何かが抜けて日本人の耳には心地よく聴こえる。司馬遼太郎は「講談」で、太宰治は「与太話」だと思うが。なぜ、それが内田にとって世界レベルの話になるのか。

この間、常見さんの文章にアウフヘーベン(愛憎合体)したら、世代感をうまいこと出せて気に入ったのであるが、他の世代からしたら気色悪いだろう。それでいいのである。
なぜなら、私も内田の文章を見て、気持ちが悪いからである。『父の不在』とか『欠如感』とかいつまで馬鹿なことを言っているのだろうと本当に寒気がするのであるが、だから、彼は気持ちが良いだろうと思う。村上を通じてしか今ではもはやそんなこと、かつては誰もが口にしたのに、口に出せないからだ。swingするのである。

 


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