変数と演算子

ひとには「パーソナルスペース」があって、それは「密着する距離」ではありません。ですから、他に空席があるにも関わらず、隣に座るのは、それぞれにとって「不自然」である蓋然性が高いので、運転手が席の移動を促すのは、サービスとして違和感がありません。


これが「論理国語」なんだけれど、つまり、彼ら(性別にかかわらず。)は、適切に自己の権利を主張できないんだ。
だから、論理国語が必要なんだよ。
従前の「国語」の文法教育では、それが教えられなかったから。
それでは十分でないんだよ。それが事実。

僕の興味範囲に引き寄せると、「論理国語が要らない」というひとがどうそれを説明するか。
フェーズを変える。
『日本語が論理的ではない』を梃子にしてこれに反対することで、語意を制限するんだ。すなわち、「『日本語が論理的ではない』と言われるがそんなことはない」このとき「文法」を肯定する。
でもそれでは説明力が不足していることが上の例で明らかなわけ。
にもかかわらず、彼らの議論ではあらかじめ、それが排除されている。

こういうことって珍しくはない。
2例挙げる。
この間、ある著名な方でこの方は論争的な傾向があるのだけれど、コロナ禍への対応として「ロックダウン法」が必要かとの問いに付随して憲法改正を求めるべきか問われたときに、「公共の福祉がある」といったんだね。
僕より上の世代だと、「公共の福祉論」が憲法問題の最前線で、喧々囂々とやったから、それ以降しばらくの、つまりはその熱冷めやらない先生に教わった世代だと、「『公共の福祉』があるがゆえに、反対に(『公共の福祉』を呼び出すときに)どのような制限がかけられるか(※ここでは、可能ではなく、受身)」と考えることが(当然求められる)リテラシーだった。
でも「読解」しか習っていないと、それがピンと来ない。それは論理関係によって「明示的」(明晰)だからで、文言として晒されて「在る」わけじゃないから。

もうひとつが砂川訴訟で、これは「統治行為論」として有名なんだけれど、これは本当は「統治行為」を言ったんじゃないんだ。いや、言ったんだけれど、それは説明論理(説諭)なわけ。本当は構成論理を言ったのであって、意訳すると、「憲法解釈に論理解釈を採用する」と宣言したんだ。つまり、今までは、「文理解釈」だったわけ。
「論理解釈」は簡単に言うと、「変数の採用」なんだ。だから、「()が憲法違反じゃない」と憲法の構造言えるなら、そこに「米軍」を入れてもかまいません。それが「憲法違反」であることが、(政府だけれども、政策議論を通じて)国会に依存すると謂ったんだ。つまり、「防衛」は政策問題で、憲法の構造としてはそれを排除しないってことだね。それは変数だから、「自衛隊」を入れてもいいわけ。これが「統治論」なのは、「統治」への原理的要請があるから。すなわち、「最小限の自衛権」。「自衛隊」か「米軍」かじゃない。それは変数だと。
したがって、砂川訴訟に従うならば、自衛隊は当然に合憲なんだよ。自衛隊法がある(から政策として現に結実して正正統性が満たされるている)。それが正当であるかどうかは「最小限の自衛」に係る。そのとき当然に、その「最小限」の判断は、合理(普遍的)的判断に従う(だから、集団的自衛権も当然に可能なのは科学的に考えるならもっとも合理的だからで、ただし、個別具体的な実現については別途議論可能)。
こういうごく自然なことを言っただけなんだけれど、「文理解釈」だとこうはならない。「文理解釈」は、「読解」という文脈依存でないにせよ、「文素還元主義」だから文言として現にそこにないと判断を停止する、すなわち、変数を許容しない考え方だからだ。砂川訴訟はこれをこそ、(法学者のおおよその期待に反して)却下した解釈を採用したのが、画期的なのだ。だから、「統治行為論」なんだけれど、「統治行為論」じゃない。
何が言いたいか。つまり、「世代語」と謂うときに、どのようにして語彙を制限して、議論を排除するかが、わかりやすくこれに現れているのだ。
「「文理解釈」が採用されるべき」というとき、その者は、文理解釈は従前の解釈方法を並べたうえで、それらに比較してもっとも合理的と言うんだ。まだ「存在していないはずの論理解釈」は言われないままで。
でも論理解釈が必須なのは、男女平等を考えると明らかだ。男女平等が個人の尊重(人権)の反映かどうかは、反対的に、「男女平等」が「人権」と並んで価値あることかから問われる。このとき、そう問うことによって、人権体系に一元的に帰属することを謂うのだけれど、これは「家族条項」に関与してくる。「家族条項」の企図が反対されるのは、「家族」が「人権」と並んで価値あることかが問われるからだ。ここに変数性が認められる。「反映である」という述語は、目的に先立ってあるからだ。
憲法が人権体系である以上、論理体系であり、論理体系である以上、解釈権を持つ3主体のうち最終的かつ不可逆な決定者である裁判所が決定した「合憲」が「自衛隊」に対しても言えることは「明示的」(明晰)である(ただし、それは無制限ではなく、憲法が構造的制限を主体とした文言であることの効果であって、もちろん構造的な制限がかけられる)。 

でもそれを「言わないこと、、、、、、によって、、、、議論をリードしているんだよ。
そうして意味があるのかどうかが判然としないことをふわふわと言うわけ。
憲法を嫌いになるか」どうかなんて、知るか、馬鹿馬鹿しい。

 

 

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