プログラマは分析的であるか(断片的なメモ)



非常に面白いのだけれど。
まずは、ファーストインプレッション。
それは「論理」というよりも「認知」じゃないかな?
もちろん、形式的な理解では、「論理の問題」なんだけれども、これは循環しているんだよね(為にする話に成っている)。
元ネタは、『プログラマがミソ』というよりも、「フリ」だよね。
つまり、そもそもフェイクなんだよ。

(認知の問題)
サリーとアンのテスト

プログラマ』は彼等への偏見を利用した、フェイクだと思える。
英語の「オタク」:ギークとナードの違いは?|WIRED.jp
元ネタは「海外」ということであり、英語話者の間でも、これは勘違いした話で一般的に笑われることがわかる。
英語でも、『卵があったら6つお願い』は「卵があったら6つお願い」と普通に理解できるのだろう。
ここで「論理」の概念が問題化してくる。
「論理」とは排除のルールであると、私は思っている。


『買い物にいって牛乳を1つ買ってきて、卵があったら6つお願い』
原文はこうらしい。
"Please go to the store and buy a carton of milk and if they have eggs, get six."
A carton of milk and eggs : Jokes


私は(スラングではないが、文法上の間違いを承知で)砕けた会話で、この程度の話じゃなかったかと思っていた。
you going to buy a (carton of) milk , eggs there get six .

即ち、形式的に正しく「条件節」というよりも、「そこにある(だろう)から」買ってきてほしい、という、あくまでandで追加される目的語だろうと思った。
want a ()milk and six eggs である。その「条件節」は言い回しで、『読めばわかる』は「読め」という語用であると。或いは、「条件」ではなく弱い「可能」もしくは「謙譲」であるとーcouldの語感で。
もちろん、語用であるにしても、『語用である』と理解するには前段に形式的理解があってこそそれと比較ができるのであって、形式的理解は必要である。その形式的理解が、(暗号を)復号する際にずれて行っていたのであった。

「論理」とは 

 それがルールであるならば、言語はすべからく論理的
 しかし、「日本語は(英語に比べて)非論理的」というときの『論理的』とは?
 チューリングの条件に、更に追加
 有限手続きで、効率的に、記述可能 の3要件
 分析的(したがって、無時間的)で、(統合的、したがって継時的、順序的に構成される)発話と対比される。この性質から、件の『プログラマ』の勘違いが「論理的」との勘違いを生み出すーもちろん、プログラムにおける"if構文"と日常会話との混同を踏まえて(この場合、「論理的」というよりも「構文的」と言ったほうがよいように思う。)ただし、プログラム文の評価が分析的であっても、手順(アルゴリズム)に従うので(コマンド⦅行為⦆選択)、効果は統合的に働くー意味論的には、前後を遡って変更するにしても、その動詞「遡る」は順序通りに行われる。この二重性がチューリングの「発見」である。
 
「条件」とは
 前件と後件に分けて並べたうえで、(主従のように、順序付けられて)前件を制限する後件のこと。「分ける」「並べる」「順序付ける」そして「制限する」
往々にして、選択分岐を表わす。
「条件節」と呼ぶのではなく、「条件表現(分岐節)」「条件表現(謙譲節)」としたらどうか。

one() and six()
one() or six()

意外と厄介なandとorの扱い | たかが英語、されど母国語 ~翻訳者・渡辺水華のブログ~
【Python入門】ANDやORなどの論理演算子を使いこなそう | 侍エンジニア塾ブログ(Samurai Blog) - プログラミング入門者向けサイト

「論理演算子 and:論理積  ∧(かつ),or:論理和 ∨(または)
これは、someとallの理解に近づく。someは∃(在る)を謂う存在命題、allは∀(すべて)を謂う全称命題。例えば、
買ってくる物の条件∀{{1()}{6()}}  ({1()}∧{6()})  
買ってくる物の条件∃{1()}∃{6()}  {{1()}∨{6()}}
リンク先の保険の話で言えば、「死亡」も独立に∃(在っ)て、「傷害」も独立に∃(在っ)て、それぞれに∃(在る)独立性を謂っている。条件とは、件々を独立に立てる、適えることでもあった。」
👆(「」内)は、∀と∃の含意していることを考えると、奇妙な「アリスの物語」になっている。
なぜだろうか?
これがS(サブジェクト)とO(オブジェクト)の混同だからである。
∨は、∃に関して非制限的であり、∧は∃に関して制限的である。
∀は無制限と考えてよいだろうか、∀nと謂うとき、nを満たすすべてであるし(枚挙性含む。)、n以外のことではない(内包性)。


※数詞が代名詞代わりになっているのが、これもひとつのフェイント
更に言えば、getの語感も「~になる」のgo / get / become / turnに違いはあるのか? | ネイティブと英語について話したことーただし、今件の場合、それほど強調される意味はないように思う。

あまりに多くの誤解を孕んでいて(例えば、"if"と"get"と「論理的」)多解釈可能であるがゆえに優れたジョークなのであるが、それが言葉自体を象徴していて面白い。


いろいろ考えていたのだけれど、いろいろ忘れてしまう。
『国境の長いトンネルを抜けると雪国だった』
川端康成『雪国』)

扉を開けたら、そこはハワイ

この2文にどれほどの違いがあるだろうか。
格助詞「と」、接続助詞「と」“ú–{Œê•ŽŒ w‚Æx
「条件節」と謂う言葉に拘らない方がよいと思う。
通言語 文法 仮定と条件節:カード
「ちんたら」は「ちんとやら」、それは「『ちん』と言う(述べる、説明する)や等」
『拾ったら』は「拾ったところ」
『読めば』は「読むと」「読むときに」。本意は「理解するために、読みなさい」であるが、文意を強調するために、「理解するためには、読みなさい」と、選択の「は」を入れたのだろう。つまり、この形式的な「条件」は、強調するためのレトリックである。レトリックはレトリックとしての意味しかないのであるから、それ以上の意味を求めるのはナンセンスでなかろか。
『割れたら』は「割れた場合には」

つまり、総じて、「条件節」の文法上の問題ではなく、形式的には「条件節」と同じ表現における意味のゆらぎの問題である。
「日本語読解」を「英語読解」のカタに嵌めようとし過ぎる、との批判は、専門家からもあるようです。


だから、「法文」と「平文」は別れるのです。すべてを、同じ一つの、理想的な「日本語」で記述し、理解することはできません。

 

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