読解と算数 -『「ほとんどあらゆる」関数が周期関数の和として「表せる」』

”一般論”として「なるほど」と言ってしまいがちだが。

 とうとうそれを言ってしまいましたね。

と言いたくなるのは、それがまさに「掛け算順序を求める先生の論理」だから。
つまり、構造的に考えるなら、「全部で」の反例が構造上「ない」なら(「ない」と証明されるなら)、公式として、機械的に運用して構わないのが、数学のはずでしょ、ってこと。それでもなお、それを求めるとしたら、それは数学の理解以前の読解力を求めているからなんだよ。
先生方が数学順序を求めるのは、直接には、(次に習う)「単位」の理解のためなんだろうけれど、数学の構造的には、順序に関わらず成立する。
3(個/皿)×5(皿)を、5(個/回)×3(回)とすると、大抵の人が「間違えている」と判断するわけ。でも俺は間違いじゃない、と小学校のころから言い続けている。なぜなら、構造的に、どのように条件(アルゴリズム)を付加しようとも、帰結が保障されているから。その構造上帰結が保障されることを、論理、と謂うんだ。
それでは大抵の人が「間違い」となぜ、言うかというと、問題文のどこにもその表現がないから。つまり、字面を素直に運用すると、そのような表現が出てくるはずがない、という、記号運用の問題なんだよ。それを大抵の人は「読解力」と謂うんだ。

先生方がなぜ、掛け算の順序を求めるかというと、背景には、『たとえ答えが合っていても、なぜそうなるのか?が自分の中でわかっているかどうかの方が重要。』ということがあって、①その確認が必要であること、②それが「読解力に基づいているべき」と考えていること、③「読解力」とは結局は記号操作の(表示に現れる、表現の)問題であると考え、問題文中の表現を使っていることを特に重要視すること、があげられるんだ。
だから、5(個/回転)×3(回転)が、どんだけ数学的(論理的)に帰結が保障されていたとしても、それは「間違い」にされてしまてしまう。どれだけアルゴリズムが正しくてもね※。
※プログラム教育に肩入れする理由もここにある。アルゴリズムが正しければいいじゃないか、そのアイデアを楽しもう、ということ。

『「ほとんどあらゆる」関数が周期関数の和として「表せる」』 ジョゼフ・フーリエ - Wikipedia



じゃあ、なんで俺が、掛け算順序を擁護するかと言いうと。
結局は、「全部で」の問題理解がまさにそうであるように、一つには、発達過程の問題(特に、この問題の場合、『小学校の壁』の一類型だと思う。だから、逆に、徒に「個性」という言葉を使って、弄ぶことはよくないと思うー発達障碍は個性なのか。これは認知の未発達或いは未成熟の問題で、障碍がないなら、時間と経験の、子どもが直接乗り越えられる問題であるし、障碍があるなら、配慮のー子供に間接的工夫を必要とする問題である。)一つには、「学び」の過程の問題があるからなんだ。
掛け算順序の問題は、何度も繰り返し言うように、「数学の問題」ではなく「算数教育の問題」なんだよ。

 

かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)

かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)

 

 
そう考えると、かけ算順序の問題の変奏(曲)は、「『はじき』は数学的に正しいか」という問題で、そういう問題が(かつては)あったんだ。
つまり、「はじき」を覚えて、算数の問題を解くのは、間違っている(正当ではない)、と多くの人が本気で考えていたんだよ※。即ち、『たとえ答えが合っていても、なぜそうなるのか?が自分の中でわかっているかどうかの方が重要。』で、それは問題文から読み解かれるべきで、問題文から読み解いたことを(こそ)、表現すべきと考えていたんだ。
『はじき』がなぜ、重要かというと、大学に行ってからも、例えば、(dy/dx)(dx/dz)=(dy/dz)なんて、安易に考えてよいのか、って繰り返し問われるからなんだ。
やはり理解しておかなければならないことは、「数学」は大学から始まるのであって、それまでは数学を理解するための準備、或いはせいぜい、社会技術の習得をしているにに過ぎないことなんだ。個別化も素晴らしいのだけれど、ここは、勘違いすべきじゃないと思う。器用な人間はどこにでもいるからね。

※『ヤフー知恵袋』には、なぜ「はじき」が使われるのか理解できず、悩み苦しんで、上のようなことを吐露し、嘆息する投降が、実際にあったんだ。「私が間違っているのでしょうか」「嘆かわしい」、理解できず苦しいってね。回答ももちろん、「あなたは間違っていません」ってね。本当の話だよ。