大人の読解力の問題ー物語と実証

これは、どう屁理屈を言おうが足し算なのは、「全部」が"すでに"足し算を含意するからで、少なくとも「2」にならないのは、それは「一部」であって「全部」ではないから。
この「学習」で大事なのは、むしろ社会態度の涵養で、間違いに感傷的にならず、間違いの効用に気付くこと、また、(自分が理解してもらうのではなく)自分から理解するよう気持ちを向かわせることなど、感情の受け入れ、感情のコントロールも学習の一環であるとは述べた(『小学校の壁』問題の一種ではないかと思う)。

ところが、肝心の大人の読解力が、甚だ怪しいのである。
どうも、物語風に読むか、実証的に解読するかの違いが出るようである。
自分が「悪問」を指摘するときにはいつも、後者の、実証主義を採るのであるが、どうも誤読する大人たちは物語風に読んで、条件を自由に付加してしまうらしい。
「自由条件」の問題と、先に提示された条件に新たな条件を付加するのは、根本的に異なると思うのだが、区別がつきにくいのだろうか。なるほど、と思い、或る意味で、めからめから鱗が落ちたのである(従前から、子どもの読解力は大人の読解力の反映で、子どもの読解力の低下が問題視されるとすれば、それに先立って、大人の読解力の低下が問題として"ある"はずであることは指摘してきた)。

 ももが5こあります。
 3こもらうと、ぜんぶでなんこになりますか。

抽象的場から具体的場面を作る条件を付加するときに、そのような具体性を伴ってもなお、答えが共通していなければならない。
たとえば、掛け算順序で言うならば、5×3も3×5も(抽象場では)答えが一緒であるがゆえに、条件を付加して、(ある「具体的場面」の表現である)5×3としても成立するのである(逆に言うと、2つあるうちの1つを選ぶ条件を付加したに過ぎない)。つまり、抽象はある具体を含むとき、それが数学的に許容できるのであって、ならば、この問題ではどうか。
抽象場から考えると、実は、こう言い換えられる。

 (或る空間に)[もも]が[在る]とき、それは{5}[こ]である。
 {3}[こ]《追加》すると、《合計》で{なん}[こ]に《なり》ますか。

次元数[]、操作《》であるので、或る次元数を持つ数に対して操作を施すときの変化を答える、となる。もちろん、次元数は1で、それについて、5+3は8である。
それでは、これと相違しないように、物語風に条件を付加すると、どうなるか。

☆若干の「読解」のテクニックとして、"英語風に"、述語の時制に着目したい。現在形は「現在行われる動作」「現在ある状態」だけではなく「普遍的真理」や「一般事実」を表現するときにも使われるのである。

☆を踏まえて、条件を付加する。

 たろうさんはももを5こ持っていました。 
 そのあと、たろうさんはおかあさんからももを3こもらいました。
 たろうさんがもっているももは、ぜんぶでなんこになりましたか。

物語風であるとは、時系列に経験を並べることであるので、「た」が頻出することとなる。そのうえで、述語がやはり、問題と成る。即ち、《もらう》と《全部でー成る》である。(日本語の場合、《成る》と《在る》の区別は大事だが、それは今回は関係なく)ここでは特に、《全部で》が大事である。この物語は、この《全部で》の説明のためにあるのだ。言い換えると、抽象場で指示される《全部で》の導く帰結を損なわないように(中立の)条件が付加されたものが物語であるということである。
本質が《全部で》ならば、トリッキーなのが《もらう》であるこの《もらう》という述語の表現が、すでに物語風なのである。おそらくここで意味を取り違えるのだ。つまり、すでにこの問題文が、物語を形成していると勘違いするのである

なぜ、こうなってしまうかと言うと、もちろん小学校1年生に「追加」という言葉が難しいということであるし、そもそも算数は具体に即して考えるのでそういう場面を想定してしまうのであるし(ここで具体性を持っているのは「もも」という固有名詞だけである)、読解と言っても、抽象的理解をするには十分な年齢ではないのである。
だから、児童にとっては、間違いも学習の一環なのであるが、大人にも同様に、学習の機会を提供したようである。
この問題文を評価するとしたら、実証として瑕疵はないので、悪問ではなく、しかし、小学生1年生の精神の発達段階で十分理解できるかどうかはわからず相応性を欠くので、良問と言えるかどうかには留保が付く※、と言った程度であろう。
※良問ではない、と言っているのではない。なぜなら、「学び」は、過去と未来を繋いだ(未規定の)現在において、過去の経験を踏まえて未来を伺う姿勢で臨むときに満足できることであるから、そういった点を踏まえていることが評価されるからである。「学び」の現在は、キメラになりやすい欠点があるのである。