否定神学(もしくはネオプラトニズム)と事後的合理性

 

markovproperty.hatenadiary.com

 
「定義」と違って、「指向」は、経験されて(事前にはうかがい知れなかった)述語を獲得してゆくことなのか。その述語に正当性を与えるのが、「合理的配慮」である。

安部首相とトランプ大統領が似ている、と言われるのも不思議ではなく、アレクサンダーハミルトン(フェデラリスト。要は、最初に近代市民国家をつくった人たちで、日本の場合、明治の建国者たち)だからで、古典的自由主義国家主義なのだから。

しかし、今は、ロビンソン・クルーソーの時代でない。
古典的自由主義者が、青い芝の人々を理解できないのは当たり前で※、彼らの政治的背景はまったく知らないのだが、自分の思うところでは、これこそ「(思想的)マルクス」(経済学的マルクスではなく。)だ。つまり、否定神学だ(マルクスにオリジナリティーなどない)。事前に述語を知ることはできない。述語を経験するほかない。それこそが「指向」で、違法ではなく「不当」と言挙げされることである。
国会議員ではないことを申し添える。国会議員は彼らと違って、利益集約機能と手段化が期待されるので、(問題提起だけではなく)対抗案を用意するのが、現実的である。

今回の飛行機と車いすの問題が、事後的合理性の問題なら。
「秘密の合言葉」は何であったか、"本当に"事前の電話の申し込みは、"secret handshake"(秘密の合言葉)となったか。

http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/dp/96/f4/dp.pdf

乙武氏はそう見ない。つまり、それは、言葉本来の持つ規範力に根差した、secret hundcuffで、まさに彼らには、社会的利益の顕在化を隠すインセンティブがある、という指摘だと思う。本質が、私的利益なのか、社会的利益なのかであって、社会的利益はどのように獲得されるべきなのか。社会的利益は秘密裏に獲得されるべきなのか、「待たされる」ことによる損失は、合理的なのか。それは経験される以外で知ることができない。
こう言っているのだと思う。ここでは秘密の共有による心理的束縛の効果だけあって、本来社会的利益となるはずの利益は彼らの私的利益となる。なぜなら、その利益をコントロールできるのは独占的で一方的な地位に基づく彼らであって、私的な関係を保って社会的にsecretで社会的なvoiceから隔離することができているとき、外部性を経費に斟酌する機会がないからだ。

コミュニケーションの起源を探る (ジャン・ニコ講義セレクション 7)

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www.huffingtonpost.jp


どちらが正しいのかは、私には、わからない。
しかし、事後的には合理的な判断であったのだろう。


青い芝の人たちにはちょっとした知的な興奮をさすがの俺でも覚えたね。
まぁ、それはそれとして。
動物愛護法といい、最近は、挑戦的な法律が増えてきたのだろうか?
日本には、神学とそこから生まれた形式論理の伝統がないから、理解されにくいなあ。
俺は最近、言語を趣味の一つにしているから、退屈しないけれど、普通はそんな変な趣味を持ってないから、わけがわからんのじゃないかね。