要は、極めて専門的に分岐した学問的経緯と成果を無視して「えいや」と戦前回帰すると、本質的にはオカルト的な(幾何的世界観による実在問題に過ぎない)、「トランスジェンダー問題」になるだけのことである。

ここでキーワードは、「抑圧」で、「長い間耐え凌いできた」(ことからの「回復」)を意味するが、それが実は戦前回帰に過ぎないだけであった。

それが所謂「リベラル的」なのである。

戦前の理想は、戦前へ回帰することで達成されるのではなく、今のところどうも、戦後に新たに達成した、道徳哲学(これ自体回復ではあるのだが、幾何的世界観の方法論を対象化することで、幾何的世界観の実践を放棄している。)、分析哲学フォン・ノイマンの科学哲学、言語哲学ほか数学基礎論も含む。シンボルを「操作対象」とみなす全般的な体系である。)、認知心理学である。これに、実践的な社会科学群や計算科学が連なる。

マルクスは所詮、戦前の拙い話に過ぎない。害悪しかない。


現在のややこしい事態は、そもそも専門的に分岐すると、(当然私も含め)素人にはお手上げで、「逃避(自由からの逃走)」が起きるからだが、計算科学と平仄の合う「脳科学」の興隆で、「心身問題」がリバイバルしたからであると思う。

発達障碍が「配慮」を求める(義務付ける)実践的解決へ向かったように(それで十全な「定型の生活」が保証されるのではない。)、トランスジェンダーも法に便宜を求める以外に解決の糸口はない(それで彼らが「自由の苦しみ」と渇望から逃れることは永遠にない)。要は、個人と資質や特性をごっちゃにしているのだ。個人は尊重される。しかし、個人が尊重されるようにして資質や特性が尊重されるのではない。ドメインが異なるのだ。或いは、個人主義と孤独感は異なる。前者は社会規範であるが、後者は そのままでは 、、、、、、 社会規範(法規範)とは なり得ない 、、、、、  (様相問題)。しかし、「ケア」の対象とはなる。技術問題として二次対象化することが原理上必須となるのだ。

「ケア」が復活した道徳哲学(倫理規範を対象化する学問)の系譜に連なるか知らないが、平仄は合っているだろう。マルクスはこのようにして過去のものとなったのだ。

へー。