シンどろろ ⑭

暁烏敏の言っていることを「唯識」と言ってしまえば楽なのであるが、なにしろ、本人んがその言葉をこの簡易なパンフレットで使っていない。

唯物論」「唯心論」「唯霊論」を排他的な概念と思ってないように読める。
仏教の説明にギリシャ哲学の知見を取り入れ、要は、そうすることで仏教の優位を暗に謳っているようにも思えるが、そういうことを現にこのパンフレットで言っているだろうか?

「大正新仏教」の融通無碍を感じるのだが、これが後にナチスと結びつくのも、「なるほど」と思わないことはない。魂は規範だからだ(固有のロジックそのものである)。

国体とは何か、を考えたときに、そもそもこの不明な語彙は、ドイツ法学からもたらされたもので、もともと、主権や政体とも不分明な概念だったのだ。
ピュタゴラス教団の「神=数」はなんとなく受け入れられている。
類似概念である、アリストテレスの「論理=神」はそれほど受け入れられていないように思える。
しかし、ポストキリスト教社会において、キリスト教の神が社会規範の根源から排除されると、何が根源となっただろう、ということである。社会進化論は社会自身が善の根源となっている。それが近代社会の一つの相貌なのだ。

 

こうした次元によって科学を特徴付けることをクーンは、マイケル・ポランニー [1966=1980] にならって「暗黙の知識」と呼び、それは科学に携わるルールというよりも、科学に実際に携わることによってのみ学ばれると位置付けた。こうした主張は、科学を個人的直感の上に置こうとする非合理主義として非難を浴びた。しかし、この非難はあたっていない。そうしたものを直感と呼ぶとしても、それは、すでに成果を挙げてきている専門家集団が取捨選択を重ねてきたものとして共有されたものであり、新人たる学生はこの集団のメンバーになる準備の一環としての訓練において、その「直感」を獲得するからである。

パラダイム - Wikipedia

 

これはひとえに、

  • なぜ、「私たち」は、共感を獲得するのか。

反対から言うと、共感を獲得する原器を「私たち」と呼ぶことにしているのは、なぜかということである。

この議論の特徴は、

論理実証主義 - Wikipedia

と結びつけられることである。

論理主義と心理主義は、フレーゲラッセルらの激しい論難によって、論理主義が圧倒したかのように思えたが、フレーゲ心理主義は、形を変え受け継がれている。

クーンの「パラダイム」はまるで、知能検査のパターン認識と物語(社会文脈)理解である。

科学理論の方でも「現象」が意味がないかと言えば、そんなことはない。

マイケル・トマセロ - Wikipedia

これは結局は、二元論に立つか一元論い立つかに問いが集約され、パラドックスを処理できるかに行き着く。

  1. 認識論
  2. 規範理論

との関係のことである。人間を原器とするとき、原器的性格に着目してその形態を論じるのが心理学で、原器であるところの効果として認知対象の操作的性格に着目して、とりわけ変数の扱い方の問題となるのが言語学だろうか。

一言で言うと、無限を扱うには規範が要る、ということになると思う。その無限にも種類があるらしいということだ。そうすると、その無限の特徴に応じた規範ができる。
再帰性の問題である。

例えば、心身二元論はこの典型的な議論形式を採っており、

markovproperty.hatenadiary.com

行為は「行為」として認識に統合されるか、認識は「認識する」こととして行為に統合されるかのいずれかの一元論の中心命題の規範性を競うのだが、二元論というとき、この例外で、(変数としての)「自由」を、つまり、外部性を問うている。

しかし、人間は共感できるのだ。

それを個人から説明するとき、「直観」「直感」と呼ぶ。

 

 robomind.co.jp

 

1969年だそうである。1966年『英霊の声』、翌年の1967年『どろろ』の数年後に、マーヴィン・ミンスキーの『パーセプトロン』が出され、ニューラルネットワークの限界が示されたそうである。その年に、フレーム問題も提唱された。

それならば、なぜ「AIにできることと、できないことが、ある」といまだに言われるのか。これは古くは「創造(無から有を生み出す)」乃至「(特に時間の)始原」の問題として捉えられてきた(がゆえに無限と関係づけられてきた)。
要は、フレーム問題とは純粋に論理的な問題である。

この「創造」を「変化」から捉えられるかを問うたのが、アリストテレスである。
だから、彼の論理は神と結びつけられる。

人間は記憶に限界がある。

日本教育学原義(渡部政盛 ,昭13) - 国立国会図書館デジタルコレクション

敬愛する「二流」の人、渡部も生命と生活に考察を加える。
その際、「全一」から捉えたのである。
フランクフルト学派 - Wikipedia

渡部はルソー主義者で、教育をもっぱら論じる。このとき、古典的教養も参照しているのが特徴だ。ルソーとプラトンである。

「二流」であるがゆえに渡部からうかがい知れることがあるとは言え(大衆による理解として。)、戦前、どの程度こういった影響があったのか知らない。
ただ、国をあげて「生活」が論じられたが、宗教方面からの「生活」、教育方面からの(啓蒙運動からの)「生活」、左翼思潮からの(資本主義批判から、プロレタリアの、或いは、批判学派の)「生活」の4つの「生活」があっただろうか?
近代的な「全一」の理解はファシズムへたどり着いた。

 

ikedanobuo.livedoor.biz

これは、典型的な心身二元論であって(すなわち、原理的な外部性を問うている

。)、その「複雑さ」を規範理論にプロットできるかの技術への回答が求められている。それは、そこで求められる「技術」が対象への操作であるがために、存在の一意性の意味論を問うこととなる。すなわち、複雑さを或る単純さに置き換える操作は、存在全体の意味に回収される経緯として位置づけられる。要は、どのような迷路を進もうとも、一元的にゴールは定められている。

そうではなく、複雑さを個別性に置き換える操作は、二元論的解決であるが、有限回数が問われる。

マルクーゼはこのような先進社会においても管理されていない少数のアウトサイダー、マイノリティが新しい否定の力を担うことを期待している。

一次元的人間 - Wikipedia

宗教上の問題を国家が解決できない。
国家でなければよいのか?
国家で解決できることすら解決できない。

大正にも「出歯亀事件」を嚆矢とする「変態」の問題は、戦後の社会問題となっていた「孤独」の問題と絡んで、科学(心理学)、法学、社会学、文学を巻き込んだ大騒動となったのであるから、実は、珍しくはないように思える。

marysblood.jp

むしろ、安倍元首相殺人事件が、異様な論調で飾られたのが反対に際立つと思う。
元首相が暗殺されるというテロリズムが戦前の「暗黒時代」並みの手軽さで起きたことにも戦慄するがそれが非難されずに、いつの間にか「変人」が社会問題に関して世論を代表するという奇妙な時代になっていることに驚く。例えば、非一般的ではない属性を有すると認知された人が、そのユニークさゆえに、オピニオンリーダーになることはしばしば見られたが、この事件に関しては明らかに正気じゃない論調が目立った。

テロリズムも重大事件であるが、それ以前に殺人事件は殺人事件である。
それを社会矛盾であると擁護する合理性はない。
合理的でないのが日常ならばそれはまさしく「変人」である。
「変人」は「変人」なのであって世論を代表することはできない。
殺人が殺人であるのと同じように。
ただこれに関しては、サイレントマジョリティーは迷うことなくわかっていると思う。