シンどろろ ⑮

 

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なんだ、石原慎太郎太陽の季節』の最期の謎だった「玩具」の正体がわかった。

ルイーズ  つまり、古い玩具を棄てて、新しい玩具の方に手は出したものの、扨て、その玩具で遊ぶ段になると、どうも勝手が違つて、面白くないつて云ふわけね。(間)あたしは、その二つの玩具で面白く遊ぶことを知つてゐるの。

岸田國士 古い玩具(一幕六場)

慶応の先輩で、やはりフランスから来たらしい。

この戯曲『古い玩具』では4か所「玩具」と使われているが、すべてこの一文に収まっており、これがすべてである。

太宰~横光~藤澤~久保田~岸田と来てわかった。

岸田國士 戦争と文化 ――力としての文化 第三話

岸田國士」「価値紊乱」で検索すると、

10mtv.jp

の次に表示されるのだが、「生活」で単語検索をかけると114か所該当する。

元来、国家の存立といふものは、個人の存在と、その根本に於て意味が違ふことを、はつきりわれわれの道徳は教へてをります。個人は、その生命に自然の限界があり、生命の尊さにも亦おのづから制約があるのであります。人は数々の理由によつて、みづから死を択ぶことすらあります。然るに、わが国は、いかなることがあつても滅んではならず、また、いかなる困難があつても、栄えねばならぬ絶対無上の生命が籠つてゐるのであります。そのため「七生報国」は、日本国民の血液にひそむ大悲願なのであります。

岸田國士 戦争と文化 ――力としての文化 第三話

これなどはむしろ、晩年の三島由紀夫の方である。
三島の(才能ではなく)学識に疑問を抱くようになったーというより、太宰らとの比較を試みると、戦前からの出自による限界を感じて、戦後の傾向にはいかにも取ってつけたような感じを受けて居たのだが、やはりそうではないかと意を強くした。
なお、検索にかかる「生命」の3か所はこの文で消尽されている。

「価値」は4か所で

 道徳は元来「意志的」なものとされてゐるのですが、今日われわれの社会で「道徳」と名づけられ、また、「道徳」で通用してゐるものの多くは、単に「観念」や「理念」を説くことであるか、或は、「感情」の色彩の濃い表情を示すに過ぎないやうに思はれます。道徳は飽くまでも「行為」でなければなりません。仮りに「道徳」を説くことも「道徳的」だとすれば、その説くところは、少くとも、言葉として、「意志」的な響きを伝へ、「意志」としての力をもつた行為そのものでなければなりません。
 道徳論が行為としての価値を問はれることになると、もはや、観念的な高さや正しさだけで満足することはできなくなります。そこには、表現の美しさも要求されませう。意欲の旺んなことも一つの条件となりませう。いはゆる知情意を貫く「誠」の現れとして、行為の人格性が問題となるのであります。

岸田國士 戦争と文化 ――力としての文化 第三話

「野性」のもつ逞しい力は、「自然人」としての、人工に蝕まれない、風雪に堪へる精神と肉体にあるのですが、かゝる精神と肉体が、雄渾にして高雅な文化の形成と両立しない筈はなく、要するに、「野性」といふ言葉には、それ自身の価値以上に、これと対蹠的な「末期的文化」への反動的批判が含まれてゐるものと解すべきであります。

岸田國士 戦争と文化 ――力としての文化 第三話

 その何れが最も健全なりやと問はれても、それは俄かに返答はできません。なぜなら、その何れにも、高さの程度があり、むしろ、娯楽の文化的価値は、決して知的なるがゆゑに高く、感覚的なるが故に低いといふやうな見方では決められません。たゞ、その純粋性と自然の品格によつて決められるのです。  民衆の娯楽、殊に青年の娯楽は、民衆自身、青年自身の手になつたもの、その素朴純粋な精神を精神としたものが、一番高い価値をもちます。私は嘗てかういふ文章を公にしたことがあります。「民衆の娯楽的欲求は元来健全なものだと私は信じてゐる。これを不健全なものにするのは、民衆を食ひものにする手合の陰謀と術策である。営利的娯楽業者と独善的民衆指導者の猛省を促したい。」  

岸田國士 戦争と文化 ――力としての文化 第三話

戦前にあらためて回帰した三島(しかし、それは三島本来の、つまり出自への回帰ではない。)と戦後社会に戸惑いつつも新たな道を模索した石原の分岐を説明しているかのようである。しかし、岸田がこの文章を著したのは戦前である。石原はここに留まっていなかった。

「娯楽」の一番不健全なものは、「生活」と離れて、「生活」から人々を引き離すためにあるやうな種類のものであります。

岸田國士 戦争と文化 ――力としての文化 第三話

実は、「戦前」と「戦後」の対立ではなく、ヨーロッパ大陸の文化受容とアメリカの文化受容対立ではなかったか。石原と三島の言った「紊乱」とは「人々を引き離す」ことでなかったか。

娯楽的要素は、むろん体育のなかにも、芸術のなかにも、学術的研究のなかにさへもあり、また娯楽を芸術的に、科学的に仕組み、成り立たせることも可能ではありますが、娯楽そのものの本質は、人間が最も自然な姿に於て歓喜し、興奮し、心身のさまでの苦痛を伴はずに、これに没頭し得る「遊戯」でなければなりません。

岸田國士 戦争と文化 ――力としての文化 第三話

石原のターゲットが、アメリカ的な生活のもたらした、あたらしい「営利」と「独善」だったとすれば、それは(どこまでアメリカを意識したかはここからはわからないが—「アメリカ」では検索にかからない。)岸田がかつて触れていたことである。

 

ちなみに岸田の目指した「純粋」とは、

岸田國士の「純粋演劇」――初期作品における恋愛と演戯――,村田 優

自然主義に根差しながら、超現実的なことを指向していたようである。

現代日本演劇に於ける純粋演劇から不条理演劇への流れの考察――岸田国士・別役実・岩松了の場合―― ,湯浅 雅子

太宰治の場合は、かなり複雑で、こういった人格問題の評価のほかに、パクリの評価問題、属性の評価問題があり、特に最後の属性については、「地方」の「豪農」(庶民の富裕層)出身ということが、「中央」または「士族」(就中、当時の教養の担った医師家系)出身とは、思想傾向の上で、何かしら影を落としている、すなわち、夏目、太田、志賀との関係でスペクタクルな様相を呈していると思えて仕方がありません。

一言で済ますなら、実は、太宰は、教養の点で、当時のエリートの中では、相当見劣りがしたのではないかと思えるのです。彼の不思議な個性がそれを覆い隠してしまっている。
根っからの遊び人の横光利一ともまた違う(彼も藤澤清造のアイデアをパクったと思いますが、なにせ、彼の方が藤澤より教養があったため、極めて洗練された、リベラル全盛となった後世に対して、「モダニズム」な時代を代表する作品となってしまった。当時の社会背景を考えると、藤澤の作品も間違いなく、時代を代表するものであったにも関わらず。西村賢太は藤澤の表現した仏教の意味に気づいてそのうっ憤を晴らしてくれると期待できましたが、つまり、彼の作風も変わりつつありましたが、早逝しました)。

1920年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌21年、経費削減を理由に馘首(解雇)される。松竹キネマを退社後、大阪府西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、長編小説『根津権現裏』を執筆する。

藤澤清造 - Wikipedia

演劇と映画は交錯する時代の最先端に居たのが藤澤であって、現に、役者もやっていたようだ。

根津権現裏』の翌年が横光利一の『蠅』であり久保田万太郎泉鏡花の影響を指摘したが、その久保田は、

なぜ藤澤清造なのか? - War Is Over

藤澤清造に言及していた。

久保田万太郎 - Wikipedia

八重一重 : 随筆集 , 久保田万太郎 著 , 昭14集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

昭和14年(1939年)。やはり「生活」の時代である。評価する人も居たのである。

 

横光は

横光利一 - Wikipedia

母方の先祖に松尾芭蕉が居るとかで、松尾芭蕉がどうやって食っていたかも気になるが、身分がどうたったかも気になる。

宗門人別改帳 - Wikipedia

宗門人別改帳は江戸時代の戸籍?どこで閲覧できるのか | 家系図作成の家樹-Kaju-

どうやって旅をしていたのか。

近在の百姓は当然顔パス

渡世人の旅がらすと関所 -歯牙ない渡世人の旅がらすは関所はどうやって通って- | OKWAVE

このとき、

松尾芭蕉「奥の細道」、旅のお金はどうしていたの?(全文表示)|Jタウンネット

地域に顔が利くと陰に陽に支援を受けられただろうか。
何しろ男であるし、近所の百姓が顔パスなら、保証人が付けばなんとかなりそうではある。最後は、芸を見せればよい。

 

まったく関係ないが、横光は出っ歯を気にしていたようだ。

横光利一|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館