しかし、それは違う、と浅羽さんは言い、星新一の優れた評伝を書いた最相葉月による次の分析を引用する。「星さんは未来を言い当てたのではなく、変わらない普遍的なものを指し示していたのではないか」

「星新一の思想」書評 「文学じゃない」から届いた普遍 | 好書好日

星新一の文体にも変遷があって、特徴的な「N氏」にしても最初からそうだったのではない。具体的な固有名がついていたのだが、それだと固有の、つまり、〈私〉という固有の読者の固有の経験からなる別個のイメージが反映されてしまうし(つまり、例えば、知らない名前で会っても〇〇人風であっても、古臭い名前であっても、何かしらのイメージを前もって惹起する。)、また、そうでなくても「固有名」を持つことが、文脈の引き受け手、文脈が導く意味なり、喚起するイメージなりの引き受け手となり、そのような存在の物語となる。
星新一の試行錯誤や模索で辿り着いたのは、そういった固有の物語であることを避けることで、一般化と呼べると思う。彼自身が言うには、その方が長く売れるからだ。個性が埋没するからである。この「個性がない」のはあくまでも文脈との関係であって、文脈を固有化しないという点が、機能的には、どの読者も排除していないのだろうと思う。
具体的には、登場人物の性格上の余沢、つまり人格に関する(読者のする)想像の幅を無くしているのであって、すなわち、Aという文脈の引き受け手だったところ、さらに文脈Bが加わるとき、AとBが、ある人物の内部で矛盾なく収まるだけの人格上の余裕を読者は想像するのが普通だが、そのとき、ある人物ゆえに、Aという文脈がその人物から生まれまた同時にBという文脈が生まれることが違和感なく、そのような〈子〉としての文脈の〈親〉であることが、〈親〉と〈子〉が一致しなくても違和感がない内部の意味を生み出す。読者はその読書体験が「整合的」であるための意味を創造するのだ。星の文体はそれを否定しているのだ。意味を人格に帰着させない

意味は所詮文化的なので、その限りで文化的であることを否定している。

星の人格を形成したのは、「軍国」と「終戦」と「社長」であると思う。
戦争で嫌な思いをさんざんしつつ、一方で戦前の体制の随分な恩恵を受ける側であったし、また戦地へ行かなかったことが人格形成に関して決定的であって、安堵と期待を素直に終戦時に受け入れたのが評伝に明らかだ。つまり、過剰な意味を抱え込まずに済んだ。

しかし、実際は、『おーい、でてこーい』を読んでよくわからない違和感を覚えるとすれば、この呼びかけが防空壕の体験から来ているのであるし、『声の網』は方々でさんざん説明されているが、当時の電電公社の回線上の最新技術と関係があったとしても、「ネットを予見」したものではない。
「戦争体験」が社会から薄まってゆくことに関して、戦争映画に言及する中で、星が感じる違和感として述べていて、登場人物の外観を挙げている。つまり、(しばらく星も気づかなかったらしいが)登場人物がふくよかなのだ。顔を見ても、頬がこけていない。それが当時を知る者からするとあり得ない話であって、リアリティーを削ぐらしい(何しろ、常に腹が減っていることに、恨みがあったのだから。「しばらく気づかなかった」のは、実体験した者として、わざわざ見せられるほどのことはなかったからではなかったか。要は、「チラ見」程度だったのだ)。こういったことへの星自身の言及が何かしらを示唆していないだろうか?肉付きに皮肉めいたものを感じるが、過剰だろうか。

「N氏」もただ「売らんがため」の独自のキャンペーンだったようだ、著者本人の自覚の上では。
ただ、いつだって私の一番のお気に入りの『かわいいポーリー』(『悪魔のいる天国』)なんかを読んでも、「理系っぽい」と思うのは、記号的であるが故の「構造的」であるからで(いつの間にか主人公とキャベツの刺青から生まれた「刺青」に過ぎなかったポーリーが入れ替わっている。)、彼の経歴が多少影響しているのではないかと憶測することはある。
ちなみに、この作品では「ポーリー」という固有名が与えられているが、これも多分に文化的で、要は(今読んでも、それは)「異国情緒」で、実際には、「キャベツ畑人形」(”Cabbage Patch Kids” by Coleco Industries in 1982)からの影響があったのではないかと思うが、人形の元となるアイデアが生まれたのが1976年だったそうなので、『悪魔のいる天国』の出版(1975年)よりも後であることから考えると、偶然だったのだろう。

なんでも、欧米では、赤ちゃんはキャベツから生まれるって言い伝えがあるんだとか。

#11 キャベツ | ヤサイ、サイタ。

真偽のほどはわからないが、自分も聞いたことはある。ただ、それが人形の影響から後付けされたのか、自信がない。
確か一人だけクラスで話題にしていた人が居て、ブームが去ってから、シブがき隊が主演のドラマが再放送されたときに「これか」と思った次第である。小学生としては、ラジコンやプラモデルのブームと同時期であったが、田舎では、さほどインパクトがなかったのではないかと思う。なにしろ、キャベツがより身近である。「産まれるわけがねえだろ」と単純にみな気づく。

これなどは、如何にトリックを完成させるかが肝であるから、当時やはり流行った手品の要領だったのではないかと思う。「波止場」の物語を導入することで過剰な意味に気を逸らさせるのだ。
或いは、「ポーリー」と固有名を与えられることで、経験的な固有人格が頭の中で「存在」することとなるが、それが実現してしまうという叙述上のマジックである。中島敦の『文字禍』と比べると面白い。星新一の面白さのひとつに「かいつまんで話す」ときの話芸があると思う(要は、ここでは、『文字禍』の仰々しさを言っている)。落語も好きだったらしい(☟note)。

意外に、というか、銀座の常連だったから「当たり前」なのか、星新一も流行や人気の遊びに敏感だったと思う。手品などもホステスさん相手に盛り上がったのだろう(ただの想像ではないと思うが、どのエッセイだったかは指摘できない)。

それとは別に、星の創作上の決めごとに、「星新一らしい作品の水準」を求めていて、『できそこない博物館』ではそれを一部実演している。アイデアの出来不出来だけではなく文体も気にしていたのだ。それが直ちに「普遍的」であるかはわからない(要は、私もそれを期待して読み、どこかにその根拠がないか探したが、「なかった」というのが本音である。そういったところは、の音楽シーンに起きた  へのキース・リチャーズの態度と似ていて、何をどう恰好つけたところでロックは(チャックベリーが)「最近の流行り」のテクノロジーだったに過ぎないことを喝破していた。星新一も「最近流行りのSF」から出発したのだ。星の文体の一つの源流に間違いなく、戦後にあって「最新」のSFがあったのは疑いようがない。


要は、融通無碍の飄々とした態度が星の持ち味であって、実際の人物は多少エキセントリックな点もあったらしい。
それがアスペルガー症候群を想起させるらしいが、どうだろう、「スペクトラム」の端の方かもしれない。

☞note

  真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
横光利一『頭ならびに腹』二四年十月)

  自派のマニフェスト的作品のこの起句をめぐり熱烈な擁護文を掲げた片岡鉄兵(「若き読者に訴ふ」二四年十二月)や、「ダダ主義」「ドイツ表現派」「立体派」といった名とともに盟友の筆致を顕彰る川端康成(「新進作家の新傾向解説」二五年一月)の当初から今日にいたるまで、「新感覚派」時代の横光を語る人々の関心が集中しつづけているのは、そのじつむしろ、定式のこの縮小型のほうである。現に、「急行列車が小駅に止まらずに驀進して居る」というのが「新進作家の文章の素材である」と記す片岡は、その「素材」と「黙殺」なる擬人法(=「形式」)との意表を衝く結びつきから生ずる潑剌とした力強い「感覚」が、読者に共有されずにはいないのだと書く(10)わけだが、この結びつきは、くだんの「文芸時評(二)」中に二度ほど援用されてもいたシクロフスキーにあってはむろん、「適合」ではなく異化と呼ばれてよいものとなる。

10『日本現代文学全集 67』(講談社一九六八年)三六一頁

渡部直己.日本小説技術史(Kindleの位置No.7621-7630)..Kindle版.

星が心理主義であったか論理主義であったか、文学であったか落語であったか、政治であったか遊びであったかはわからない。
横光と共通していたのは酒を飲むことくらいか。星は銀座通いをいつやめたのだったか、寝酒はやめられなかったらしい。

三木清になると「エキセントリック(離心的)」(「シェストフ的不安について」,『日本文学論争史』下巻)と云うらしいが、

要は、カントなどに依拠するから、宗教的なのである。
それは「幾何的」なのであった。
三木清は、西田幾多郎ハイデガーに師事して、後にパスカルを研究したらしい。


根津権現裏(藤沢清造,聚芳閣文芸部,大正15)|国立国会図書館デジタルコレクション 

「石のように」で全文検索をかけると7か所出てくる。
主要なテーマに言及していると言ってよい。

それがわたしには、あのエメラルドのやうに思はれた。あの磁石のやうにも思はれた。また、あの燐のやうにも思はれた。

P.51

電車内での出来事である。この「磁石」は或る女性のことで、その女性が「さき」という名の昵懇の間柄にあった女性の面影に似ていたのであった。

おかみが迎へてくれた。ところで、氣もこころも、石のやうにかたく結ぼれてゐるわたしは、それにはなんとも答

P.58

その磁石が私の「石」に代わり、やがて自死した岡田の兄の「石」に変わる。それが続いて、最後に出てくるのが、これである。

岡田の兄のことが考へられてきた。とそれが、一つ の石のやうになつてきた。-水のなかへ投げこまれた一つの石のやうになつてきた。つまり、石を水のなかへ投げこむと、きつと起つてくる波紋のやうに、その考へはすぐとわたしに、わたしの持つてゐる蝦蟇口のなかをのぞかせてきた。-覗いてみるとそこには、まづ電車賃だけは殘つてゐたから、その方はそれでいいとしても、それを差 引いてあますところはといへば、一口二度の飯代にもたりないのに氣づいてきた。

P.470

この「電車賃」とは

たとしても、病院までは、遠くへだたつてゐるだけに、每日往復の電車賃だけはいるわけだつた。もつともこれも、ものの半月もすると、も

P.145

病院へ通っていたのであり、それで、それを入れる蝦蟇口もキーワードと成る。

「さき」を検索すると、44か所もヒットして、さきほどの名前で在ったり、腹を、、「裂きたい」か「割きたい」の動詞の一部であるが、ほとんどが「先」の話である。
要は、前後関係を頻繁に意識させることで切迫感を醸しだしている。
リズムを作っていると言ってもよい。

このような切迫感或いはリズムの中で、「石」は意志(心;心理)を表現していたのだろうと想像する。それが「投げられる」再帰的な操作によって、「のぞかせてくる」蝦蟇口が口を開けているのである。これが心象風景と重なる。

それが最後の場面へと結実する。

要は、横光は、そのような内心を「『雪国』の冒頭場面を想起する外国人」のように描写したのだ。


藤澤がプロレタリア文学に傾倒していたのか、どこまでヨーロッパ、ロシアの劇術運動に精通していたかもわからない。
横光にしても、単に「渡りに船」であって、表現の模索にアイデアを利用していただけではなかったかと何となく思う。

要は、「普遍」などと言うのは、仰々しく感じられるのだ。
先行のアイデアがあって、それを工夫したくらいの方が納得できる。