「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ⑦

多少追加、訂正した(随時、訂正する。)。

 

斎藤隆夫が『回顧70年』で述べる『教場に出てみると講義はさっぱりわからない。困ったが仕方がないから書物勉強を始めた。初めからアメリカの法律などを勉強する考えはないから、主として公法や政治学を関する書物を読破することに心血を注いだ。』とはイェール・システムに沿っていたに過ぎないし、法学に収まらないイェールの特徴ある講義(それが後の、リアリズム法学の隆盛に繋がったと指摘されている。上掲)を受講していたに過ぎない。つまり、本人のエピソードとして伝えるこの段は、そのままイェール・ロー・スクールのパンフレットになっているので、若干不誠実に感じた
この頃は、科学として少数の裁判例から原則と法理を研究するケース・メソッドに対する考えがイェールではまだまだだったので、斎藤隆夫もそこに『注力』せずに大量の本を読んだわけである。

 

 

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藤澤清造は「貧困小説」を書いたのだろうか。
意外に、当時の財界やエリートに近づいた。斎藤隆夫の書生になったというのは、大きな事実ではないのだろうか?なにしろ、斎藤隆夫自身が苦労人で、方方で世話になった人だ。この頃は、そうやって世話になるのも珍しくなかっただろうし、或いは今の「民泊」だが、資産家の一種のノブレス・オブリージュであっただろう。また、県人会は上京を支援しただろうから、上京する際には伝手があっただろうと思う。
つまりは、根っからの都市民ではないのだし、出稼ぎに都会へ出たわけではないのだから、

当時「単独世帯」を生み出した何かしら新しい「都市型生活」というものの定着を見た方がよいかもしれない。それを「貧窮」と呼ぶのか「寂寥」と呼ぶのかは、「家」とよぶか「世帯」と呼ぶかの違いに案外近いのかもしれない。

藤澤隆夫は、渡部政盛と同じように雑誌に携わる新階級なのだから、ブルーオーシャンに乗り出したのであって、悲観するような境涯だっただろか、多少疑問に感じる。
それがプロレタリア文学へは向かわなかった理由だろうか。

肝心の『フィロソフィ』については、斎藤隆夫とイェール・ロー・スクールのリアリズム法学が肝となるかもしれないし、構造については、後の横光利一と比肩されるような(論理)形式が発見されるかもしれない。

要は、相当「近代小説」として完成されていて、ほのかなエリートの甘酸っぱささえ感じるのだ。
例えば、現在の年寄りは年を取ったからには坊さんの話がなにより大事になるが、当時もそうだっただろうし、年寄りに限らなかったかもしれない。仏教を織り込むことが「普通の生活」であるし、ならばそれを活写しないのも「出来過ぎた話」であって実は奇妙な話だ。かと言って、そこからいちいち高尚な哲学を引くことが、庶民にあっただろうか。在るのは日常の風景に埋没してスタティックな仏教のように思う。
要は、それが普通なのだ。「こと」や「もの」として取り出すこともない、取り出すとブランク(空白)を生み出すだけで奇妙な風景になってしまうようなことだ。
それは何か「在った」ときに説明する言葉だ。
或いは、キリスト教を仏教から説明するのが、自然なのだ。
つまり、藤澤清造の小説の方が自然なのだ。
藤澤清造は当時の社会を客観視した。客観視する作法を身に付けていた。
反対に謂うと、私たちは小説で嘘をついている。
自然であり、青臭いというよりも甘酸っぱい風景が広がる都市生活とそれを内に包む社会があった。現代の私たちが誤解している「昔の日常」が反対にあるように思う。

 

4月、「純文学にして通俗小説、このこと以外に、文藝復興は絶對に有り得ない」と説く「純粋小説論」を『改造』に発表、『紋章』での「私」を「自分を見る自分」という「四人称」であると説いた

横光利一 - Wikipedia

或る意味、或いは、来るべき藤澤のライバルである、横光も(「も」だろうか。)、かなり自覚的だった。
これはリンク先に飛んでもそうなのだが、なかなか「文学的」にはわかりづらいのではないだろうか。

つまり、横光利一はかなり意図的に分析哲学を指向したのではないだろうか。

分析哲学より少しばかり早い時期に誕生したプラグマティズムは、 アメリカ合衆国 特有の哲学的運動で分析哲学の豊かな国際性に欠けるが、 思考の明晰さや論理の正確 さを重んじ、 地に足を着けた言語使用を実行するという点で大いに分析哲学の精神と共通するところがある。 リス についてのジェームズのこの一節は、分析哲学紹介のために(たとえば バートランド・ラッセル によって) 書かれたものだっ たとしてもおかしくはない。

八木沢敬. 意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (Kindle の位置No.54-58). . Kindle 版.

赤字強調は引用者
ます、これは『プラグマティズム』だろうか。

八木沢敬はアメリカに居るからそう思うのかもしれない。むしろ、心理学的論理なのかもしれない。同じく「論理」なので、『共通する』のは、批判されたフッサールと批判したフレーゲの関係が成立することからわかる。

リス についてのジェームズのこの一節』とは

質問: あたなはリスのまわりを一周したのだろうか?  一周したという答えと、一周していないという答えはどちらも正解のように思える。だが、両方とも正解ではありえないだろう。

八木沢敬. 意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (Kindle の位置No.40-42). . Kindle 版.

リスが木の周囲を一周したときに、「私」はその外側に居て、リスと一緒に移動したら、どうなるかという問いについて尋ねている。ウィリアム・ジェームズがその著書『プラグマティズム』で取り上げたということだ。さきほどの疑問はここに由来する。『プラグマティズム』(という書物)に書かれていたからと言って、プラグマティズムの説明になっているかということである。
『豊かな国際性に欠ける』のは、(特殊性に着目して)そう見ればそうである、程度のことで、むしろ心理学のカバー範囲の広さを感じる。心理学は当時まさに世界を席巻していたのだ。そしてここで例示されているのは、まさに論理学である。

ジェームズ 自身も言っているように、ある区別をつければ良いのである。「回る」 ということはどういうことかに関して区別をつければ良いのだ。

八木沢敬. 意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (Kindle の位置No.44-45). . Kindle 版.

その解き方の解説であるが、これだとあまりに「文学的」に過ぎる。
要は、「対象」化したときの「位置」のことである。そう言うと、「数学的」になるのは、フレーゲで見た通りである。

ケンブリッジの新進気鋭の数学者であるチャールズ・ドジソンがベンに対抗して作った集合図を利用して、ルイス・キャロルがゲームにした。
宗宮 喜代子は、アリスの不思議な会話を、チャールズ・ドジソンと古典論理の陥った素朴な集合の問題から考え、パラドックスが「点」で回避できることをポンチ絵で見せる。この操作が(古典論理を克服した)形式論理の説明となっている。

ウィリアム・ジェームズにおいて、「心理学的文学」「心理学的論理学」の萌芽が芽生えていたことを示唆する。ただ、その後のことは、それぞれである。

たとえば、表面がコマに区切られた紙テープのひとつのコマに「1」という数字を書いてテープを左にひとコマずらす、というようなカニカルで単純な操作と、噓つきのパラドックスについて考えるというような深い集中力と繊細な論理的能力を要求する思考活動とはまったく異なった種類の出来事の ように見えるが、機能主義( functionalism)という心の哲学の理論のひとつの バージョンである計算主義( computationalism)によると、両者のあいだには 本質的な差はない。

八木沢敬. 意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (Kindle の位置No.65-69). . Kindle 版.

横光利一の『機械』はおそらくラッセルのパラドックスを援用して書かれている。
『描写には値打ちがあるとした』とは『日輪』への久米正雄の評だが、小林秀雄が『この作品の手法は新しい。』と『機械』を絶賛したのは、同じことに留まるのではないだろうか。
川端が『心理的』と評したのはむしろ心理学的であろうし、『心理の横糸、図式、あるひは交響、波動』について『その根底の横光の仏心を私は感じる』としたことに及んでは、藤澤清造と暗に比較しているのではないかとさえ思える。

アメリカの大学では分析哲学があまりにも主流なので、わざわざ「分析哲学」という言葉を使わないことが多い。実際は分析哲学を学んでいながら、卒業するまでそれが分析哲学だとは知らない哲学専攻の学生は驚くほど多い。

  では日本はどうかというと、事情はまったく異なる。

八木沢敬. 分析哲学入門 (Kindle の位置No.8-10). . Kindle 版.

八木沢敬の問題意識では、(ここでは明言されないが)マルクス主義のことである。

日本においても、戦後、「マルクス主義論理学」という分析哲学とは別の、、、、、、、、論理学が席巻したらしいことの情勢が語られている。
その時代の生々しさを知らない世代に属する私からすると、「そんな奇妙なことが在り得るのだろうか」と訝しく思ったが、読んでみると、なるほどと思わされた。

八木沢敬のこのシリーズは、「神」を以て完了する。すなわち、アンセルムスの「神の存在証明」である。

横光利一の問題意識と文学上の変遷を別様から解説しているようなものである。