「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ⑥

 

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最初の時点で、フレッド(後に七面鳥であるとされた)は生きていて、銃には弾丸が装填されていないものとする。銃に弾丸を装填し、少し待機し、フレッドに向けて発砲すれば、フレッドは殺されるものと想定される。ところが、変化が最小化されるべく論理学的な定式化がなされたとすると(慣性(inertia)の表現)、装填・待機・発砲という一連の動作の後にフレッドが死亡しているという結論が必ずしも導かれない。

イェール射撃問題 - Wikipedia

 

藤澤清造の『フィロソフィ』の候補を上げるとしたら、何だろう。

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そのほか、交友関係には、横川巴(巴人)、赤尾彌一、大槻了、安野助多郎、三上於菟吉などがいて、知人に伊藤銀月、中里介山徳田秋声小山内薫久保田万太郎が居る。

注目すべき人物は、徳田秋声を除いて2人居て、斎藤隆夫中里介山だが、斎藤隆夫は当時弁護士だったが、後に政治家になって歴史の表舞台に出た人で、イェール・ロー・スクールに学んだ。また、斎藤隆夫は、日本で天気予報を始めた内務官僚である桜井勉の書生となったり、桜井の退官後には、元維新の志士で財界の大物、原六郎から学費支払いの支援を受けていたりとかなり期待された人物だったようだ。原六郎もまた、イェール大学の出身である(イギリスのキングスカレッジにも学んだらしい)。
当時の「書生」がどういうものかがよくわからないが、紹介があったにせよ、藤澤清造も当初そう期待されていたのではなかったか。

中里介山は、『大菩薩峠』を書いて、日本で大衆小説を始めたらしい。連載開始は1913年(大正2年)。

作者は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。世界最長を目指して執筆された時代小説で、大衆小説の先駆けとされる。

大菩薩峠 (小説) - Wikipedia

『大乗』とは『小乗』ではないということらしい。

出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済を掲げる仏教宗派の総称であり

大乗仏教 - Wikipedia

 

イェール大学の人脈では、ジェローム・ニュー・フランク(1889年9月10日 – 1957年1月13日)が興味深くて、

ジェローム・フランク - Wikipedia

特に、

 S(Stimuli,刺激)×P(Personality,パーソナリティ)=D(court's Decision,判決)

夏目漱石を思い出させる。
ジェローム・ニュー・フランクは、藤澤清造より1月早く生まれただけであるが、

斎藤隆夫がイェール大学に留学したのは、明治34年(1901年)9月のことであるから、ジェローム・ニュー・フランクが講義をする随分前のことであった。
それではどうかというと、

f:id:MarkovProperty:20220126191947j:plain19世紀アメリカにおける大学付属ロースクール―イェール・ロー・スクールを中心として—

「すべての法は judge-made Lawである」としてリアリズムの先鞭を付けたJ・ C・グレイの名がある(The nature and sources of the law, ( Beacon Paper back in 1963 ) Boston: Beacon Press,  John Chipmann Gray,1909 /法の権威性 大塚滋

斎藤隆夫は公法(おそらく、憲法学)政治学を学んだということであるが、リアリズム法学を学んできていたとしたら、世話になったのがごく短期間とは言え、藤澤清造もその影響を受けただろうか。そう考えると、面白い。

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どうもイェールで博士号※を取ってきたのは、斎藤隆夫ではなく、鳩山和夫だったようで、イェールでは当時博士課程で一般法理学を開講していたらしい。
鳩山は新設されたイェール・ロー・スクールで1878年明治11年修士号を取得し、卒業論文で日本民法とローマ法の比較をテーマにしたら、これが大変評価が高かったようで、卒業講演を行ったばかりではなく、20年後の1901年(明治34年)10月に開催されたイェール大学創設200周年記念式典於いて、名誉博士号を授与されている。

※イェール・ロー・スクールの設立は1843年、ハーバード・ロー・スクールの設立は1817年、大日本帝国憲法の起草に携わった金子堅太郎 はLLB及びLLDを授与されている。ハーバード・ロー・スクール - Wikipedia

「博士号」と言えば、

現在では、伝統4学部のうち職業教育系の神学・法学・医学を含むばかりではなく、様々な種類の学問について授与される

Doctor of Philosophy - Wikipedia

であるが、法学の場合、ロー・スクールを出ただけだと、

法務博士(専門職)(ほうむはくし せんもんしょく、Juris Doctor degree〈J.D. または JD〉、Doctor of Jurisprudence degree〈D.Jur. または DJur〉)は、専門職大学院が付与する専門職学位の1つであり、法科大学院を修了した者に授与される。

法務博士(専門職) - Wikipedia

であり、これは、

ただし、法務博士 (J.D.) などの職業系の学位は必ずしもこの枠組に当てはまらない。例えばアメリカのM.D. (Doctor of Medicine) や法務博士などの専門職学位Ph.D.とは別の課程であり、学術的には修士相当と見なされている。

Doctor of Philosophy - Wikipedia

ということで、さらに専門課程を経て、

Doctor of Juridical Science、(ラテン語:Scientiae Juridicae Doctor)(S.J.D.)はアメリカのロースクールの学位のうち、最も高い学位

Doctor of Juridical Science - Wikipedia

を授与され、これが所謂(一般にイメージするところの)「博士号」らしい。

日本で初めて法学博士号を授与されたのは、箕作麟祥田尻稲次郎菊池武夫穂積陳重鳩山和夫の5人である(1888年明治21年)5月7日)

博士(法学) - Wikipedia

日本の「博士(法学)」はS.J.D相当で、鳩山は日米で法学博士になったということのようだ。

 

斎藤隆夫鳩山和夫に面識があったかは(今のところ)わからない。
斎藤隆夫は、明治36年1903年)3月まで順調に学んでいたが持病で入院することになって、3回の手術でも治らなかったために、結局1年入院してま復学せずにそのま帰国した。
実は、9月の新年度からイェール大学は変貌を遂げたらしく、新しい教授の就任とともに、ハーバード・ロー・スクールに倣って、ケース・メソッドを主要な教材として活用してゆくようになって行ったらしい。
それまでもケースメソッドは取り上げられていたが、所謂「イェール・システム」と呼ばれるケースブックを読み込む自学・読誦が擁護されていたということだ。
斎藤隆夫が『回顧70年』で述べる『教場に出てみると講義はさっぱりわからない。困ったが仕方がないから書物勉強を始めた。初めからアメリカの法律などを勉強する考えはないから、主として公法や政治学を関する書物を読破することに心血を注いだ。』とはイェール・システムに沿っていたに過ぎないし、法学に収まらないイェールの特徴ある講義(それが後の、リアリズム法学の隆盛に繋がったと指摘されている。上掲)を受講していたに過ぎない。つまり、本人のエピソードとして伝えるこの段は、そのままイェール・ロー・スクールのパンフレットになっているので、若干不誠実に感じた
この頃は、科学として少数の裁判例から原則と法理を研究するケース・メソッドに対する考えがイェールではまだまだだったので、斎藤隆夫もそこに『注力』せずに大量の本を読んだわけである。

ちなみに、この頃、星一も渡米していた。

星一 - Wikipedia

斎藤 隆夫 1870年9月13日〈明治3年8月18日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月7日
星 一   1873年明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日

生まれが3年違いで、同じ年の1891年(明治24年)にそれぞれ、斎藤隆夫が東京専門学校(行政科主席)を、星一が東京商業学校を卒業している。前者は現在の早稲田大学で、後者は東京高等商業学校(現在の一橋大学)の教授などによって1889年(明治22年)に創立された日本で最初の私立商業学校ということだ。1889年(明治22年)は藤澤清造が生まれた年である。