日本語が上手くならない。
「たり」は教えられたように使えただろうか。
それ以外は酷い。
と思ったら、間違えていた。
書生であったり、支援を受けて居たり
はおかしい。
書生となったり、支援を受けて居たり
の方がマシのように思う。
ここで「たり」の(よくある)誤用は「〈も〉用法」とでも呼べそうな「代表化(挙例化)」への近づきにも見える。
準備もしないで、何しているの。
というときの〈も〉は「あれもこれも」の〈も〉の代表化(挙例化)である。
ゲームをしたりして、遊んでいた。
「~たり、~たり」を省略しない理由 | 毎日ことば
やはり単独用法もある。
これすごくいいな。考え方に共感できる。
0.7 論理学の前に言語学があること
日本語は、英語の環境からみれば、曖昧さが多いとされています。しかし、これは日本語が不完全な言語であるのではなく、言葉の使い方が不適切であることの方に罪があります。
世の中立派な人が多いと感心する。
日常言語の論理を考えるうえで
「猫は動物です」「猫は動物である」はbe動詞の形と考えることができます。
と
日本の文化には三値論理学的な考え方が多く見られます。
が肝となるらしい。集合論と多値論理ということらしい。
数学的な条件に応用するとき、数の(正・負)にゼロ(0)の場合を加えた三分法もそうです。三つの概念に分けるとき、二分法に比べて判断が曖昧になりますので、理論にこだわる人は嫌います。
これはスマリヤンの様相論理学の目的となりそうだ。このとき、三段論法もあわせてみることができそうだ。したがって、
- タイプ(数学の「集合」に変わること)
- 様相(3段論法)
から考えれば、自然言語の論理に関して何かしら見えてこないだろうか。
P18束縛変項、自由変項、P33モンターギュ文法などがある。
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前回言いたかったのは、単純に考えると、自殺した岡田と主人公の入れ替わりを、横光利一の『機械』と比べて、評価するところだが、ひょっとすると、それ以上のことがあったのではないか、ということ。