叙述トリック

 

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あなた、先ほどから私たちが今いる給湯室の、社員たちが各自持ち寄ったカップをてんでに置いている流しの横のスペースを落ち着きなげに見つめてらっしゃるようにお見受けしましたが、そこに何があると言うんですか?

(『スタッキング可能』の冒頭文)

 

『私たちが今いる』からと言って「私たちが今いる」と言う必要はなく、『先ほどから』だからと言って「先ほどから」と言う必要はなく、『各自持ち寄った』からと言って「各自持ち寄った」と言う必要はない。分岐が制限されて意味が同定できれば十分であって、それは見えない構造が決めることを前回は言った。

 

さて、肝心の作者の意図はその程度だったのだろうか。
前回は文体、というか劇場出身の作者のキャラ弁(と謂うと「キャラクター弁当」のようであるが、ここでは方言を指す。)ではないかと思ったのであった。
劇場出身の本谷有希子も、どうしても文章の天才山田詠美に酷評されてしまうのであるが、彼女は天才だけに、どうにも(芥川賞の選評を見てもそうだが)アドバイスができない(新人だから下手に決まっているが、最近は無理に褒めている)。「文体」と考えると「下手」で終わってしまうところ、劇作家ゆえの雰囲気と捉えると妙な味わいが出る。ならそれは「弁」でよいではないかと思った次第である。
ただ、同じような出身の水嶋ヒロは失敗したので、それなりに注意が要るらしい。演じる側と演出(製作)側の違いが出ただろうか。意匠に違和感があっても、建付けがしっかりしていれば倒れることはなく、成立しているのだろう。

👇「文体」に入る前に、読むとよいらしい(『日本語文体論』で紹介されているらしい)。興味深いのはそれが「心理学」だからで、それは

フッサールの論理学観

フッサールが居たからである。

1891年

 『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』第1巻。
ゴットロープ・フレーゲパウル・ナトルプから心理学主義を批判される(フッサール自身もこの批判を受け入れ、心理学主義的な考えを捨てたため第二巻の出版は断念され未完)。

エトムント・フッサール - Wikipedia

普遍的真理への理解はなんだかんだ言って人間を表現の客体として選び、論理と心理を区別できていなかったのである。これはフッサールだけが責められることはなく、ラッセルを高名にした「床屋のパラドックス」においてまだその(人間中心の)痕跡が見られる。まだギリシャ人の方が素直に理解できていた。論理はただの、、、評価のシステム、、、、に過ぎない。言葉に拘る必然性すらない。ただ、言葉でシステム構築を間に合わせることはでき、人間で評価軸を間に合わせることはできる。しかし、その逆は成り立たないのであって、文法と論理が同じとは限らないし、〈忘れた〉、論理と論理的文章は異なるのである。

 

さて、敢えて重畳的な文章を書いてトリックスターを生み出しているのか。
これが

の読むべき点ということになるだろうか。