法哲学者H.L.A.ハートの生涯

 

心理分析と並んで叙述を支えるのは、エリート社会をめぐる知識社会学的な説明だ。オックスフォード大学や哲学者コミュニティーは、自分の学問分野を支配したいとの欲望が渦巻く男社会だった。ハートはこの社会のインサイダーとなるが、最後までアウトサイダー意識が消えなかった。自分は「完全には男性的ではない」。「女性的側面」の抑圧こそが自らのパニックの一因だろう。ジェンダー法学者でもある著者レイシーは、ハートのこうした自己分析を見逃さなかった。     

     ◇

Nicola Lacey 英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授(刑法・法理論・ジェンダー法学)。

 

「法哲学者H.L.A.ハートの生涯(上・下)」書評 厳密な分析の根底に不安と抑圧|好書好日

 

問題 論者 立場 主張 批判対象 意義 効果
日常言語の不備 ラッセ 理想言語学
論理主義
型理論 神秘主義 パラドックスの解決 命題論理の拡張
ナチス法への抵抗 フラー アメリ実証主義
アリストテレス主義
法の内在的道徳
〈鏡〉の比喩
自然法 根本規範の見直し 主権者命令説の後退
「承認」の未決拘束 ドウォーキン 解釈主義
プラトン主義
正解テーゼ
〈芽〉の比喩
存在論 通訳不可能の指摘 倫理的懐疑論の後退

 

レイシー フェミニズム        

 

ニコラ・レイシーによると、所謂「ハート=フラー論争」は、ハートにとってその思考をさらに研ぎ澄ませる研ぎ石となって、要は、2人は協調して20世紀の民主的な法に途を拓いたということである。この論争は、ハートの理論上厳密でなかった細部を詰める意味があったということになるだろう。

したがって、これを「ハート=フラー論争」ではなく、【ハート=フラーの三段論法】と呼ぶこととする。


【ハート=フラーの三段論法】

  • 不正な法は法ではない(自然法
  • あまりに不正な法は効果の発揮が不能法主体の自然な限界能力※1
  • 法に公理はある(法は法主体と法主体の関係にある※2

実証主義は、主体をテキスト外に出して、テキスト自体を論じるが、この場合、自然法は(外に出された)主体に付随することとなる。すなわち、法と道徳の分離は、テキストと主体の分離と重なる。したがって、法自体は道徳から独立して成立するが、効果は主体でリジェクトされる。

※「法の不遡及」などは法が法として成立するための「道徳」であり、フィクションではない。「鶏」として永遠に遡及される「根本」ではなく、「法がある」として言及されることと同値な内容を保持する。例えば、法とは「法の不遡及」を備えたテキストと同値のことである。

(参考)ロン・フラー - ロン・フラーの概要 - Weblio辞書

 

この効果は、オースティンの「主権者命令説」と、ケルゼンの「根本規範」を過去に追いやったというのが、私の感想である。オースティンの代わりに「民主的決定説」とケルゼンの代わりに「法様相」が登場した。なお、ハートは「ナチスの生みの親」との汚名を着せられたオースティンを擁護しているらしい。


二コラ・メアリー・レイシーはハーバート・ライオネル・アルファドス・ハートと論争したのではない。

ただ、「民主的決定説」の描き方を見ると、おそらくそれが彼女の「論点」であって、その意味では、彼女の立場から(フラーと同じく)協調的な「論争」をしていると考えてよいのではないかと思って表に挙げておいた。

ラッセルらからは酷く揶揄されたし、

ドゥウォーキンは法実証主義の最も重要な批判者であり、考えうるありとあらゆるレベルの法実証主義者の理論を拒絶する

ロナルド・ドウォーキン - Wikipedia

さて、まだ読んでいないが、

ドウォーキンは【ハート=フラーの三段論法】を否定したのではなかったか。
要は、〈判断〉の原基としての人間の取り扱いを巡る争いであり、根底にベンサムによる人間モデルに基づく「自動計算」がある。


ラッセルは〈判断〉の不確実性を原基としては神秘的と批判し計算に特化した。

ヴィトゲンシュタインは計算を〈判断〉の果実にした。

チョムスキーは〈判断〉の原基にある原理的限界から始めた。

ハートは計算結果を受けて〈判断〉が止まることを指摘した。

フラーは計算自体が原基で在るからその〈判断〉があるとした。

ドウォーキンはそもそも〈判断〉できることと〈判断〉できないことがあり、〈判断〉できることはもとより計算不要とした。

ゲーデルは・・・


ラッセルは、ハートを非難したと同時にフッサールも批判し、ヴィトゲンシュタインをも不安視した。
ヴィトゲンシュタインが言ったのは、「所詮は人」ということであり、人間の認識能力の限界がある限り、それで納得するしかないということで、「世界は」と言ったときも、それで納得しているに過ぎないと言ったのだ。
チョムスキー生成文法は、すべての文法の母体ではなく、人間たるものその程度の認識能力しか持たないと言ったのだ。認識能力の限界から自ずと始まるのであり、それが「単位として世界を構成してゆく」わけではない。
そうすると、言葉が認識を作るのか、認識が言葉を作るのかも馬鹿げた話で、P認識の反映がP'言語であるとき、P'言語が先にあってもP認識以上のことは認識できない。言語にそれ以上の可能性があっても、それが認識の限界だからである。
「わからないこと」が「わかるようになる」ことがない、と言っている。
わかるようにしかわかりようがないのである。
「わかりようがない」ことをドウォーキンは「通訳不能」と謂い、「わかりようがある」ことを「解釈可能」と謂ったようだ。

こうなると、ラッセルの議論の必然的結果として、ゲーデルを理解しないわけにはゆかなくなる。これらの議論を繋ぐために、信念に照らして言及するスマリヤンの様相論理体系K4 はお誂え向きであることが腑に落ちた。