「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ②

 

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徳田秋声の何をしたかったのか、忘れてしまいそうである。
発端は夏目漱石による『あらくれ』評である。

夏目漱石は『あらくれ』について、「何処をつかまへても嘘らしくない」「徳田氏の作物を読むと、いつも現実味はこれかと思はせられる」と前置きした上で、「現実其儘を書いて居るが、其裏にフィロソフィがない」と評した

徳田秋声 - Wikipedia

『フィロソフィ』とは何か、から始まった。
確かに『あらくれ』を読むと、上手であるが、「すんなり」していて、拍子抜けする。
これが川端によると日本における「自然主義」の頂点を極めたと言うのであるから、どう受け取ればよいのか。徳田秋声日本ペンクラブを立ち上げたほどの人物であるから、川端の政治的思惑だろうか。

生田長江は評論「徳田秋声の小説」において、秋声の自然主義を作者の「本来の性格に深い根差(ねざし)を置いてゐる」として、「生れたる自然派」と評した[17]。

徳田秋声 - Wikipedia

赤字強調は引用者。
要は、これだろうと思う。川端が、

秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる

徳田秋声 - Wikipedia

と評したのは、『青天を衝け』ども、という話だったのだ。

明治40年代から大正年間にかけての短編小説では、客観小説のほうに優れた作品が多いとされる[21]

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要は、社会も移り変わってゆく中で、新境地を求めたであろう。
ただ、その『客観』はどの「客観」だったのか。「自由」に関する問いと同相である。

客観小説の方であるが、1922年(大正11年)に藤沢清造が『根津権現裏』を刊行した次の年から、佳作が続いたようだ。

根津権現裏』で自殺した岡田のモデルになった安野助多郎が入院していたのが斎藤茂吉の病院で、斎藤茂吉が作品中のモデルになっているかというと、岡田の自殺の原因を作った宮部は帝大の文科を出た心理学の研究者であるので、医科大学出身の精神科医斎藤茂吉と異なるが、斎藤茂吉は浄土宗で藤沢清造と同じである。

蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播

なにしろ宗教の話になるとよくわからなくなる、ということはある。

忘れないように、『根津権現裏』の特徴を挙げると、

  • 地方を舞台にしつつ「中央語」(鈴木三重吉)で書かれた都会型の小説である
  • 当時社会問題となりつつあった、「単独世帯」に属している
  • 雑誌社に勤める新階級である
  • 心理学に関係して、「視線」を問うている
  • 心理学に関係して、放浪小説である
  • 仏教、或いはキリスト教を対置している

仏教がよくわからなければ、「心理学」ということで多少は当時の雰囲気をつかめるだろうか。

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こちらが、1894年(明治27)。

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こちらが、1918年(大正 7年)。
この奇妙な題名の本の著者がが宮武外骨と高島平三郎なのだが、宮武外骨はやたらと挑発的な発言の多い問題含みの人物らしく、発行物の発禁処分も数度くらっている。
高島平三郎は、官立の師範学校である広島師範学校分校を出た教育者で、独学で心理学、児童学を学んだらしい。東洋大学の学長を務めた名士である。東洋大学と言えば、白山キャンパスがあって、もとを辿ると白山神社に因んでいるが、命名は戦後の話である。

高島平三郎の心理学を信じないではないのだが、1918年(大正 7年)と言えば、渡部政盛が初の著書『最近教育学説の叙述及び批判』を出した年である。

八大教育主張 - Wikipedia

渡部政盛は小学校で教えていたが、日本大学高等師範部出て、教育評論をするようになった。東京高等師範学校の教授をしていた森岡常蔵の講習会に出席したのがきっかけらしい。

それからもう1つは,例の「人形の家」の主人公 ,女の主人公ですね ,これが夫にそむいて家出をしたという話に触れまして ,これはとんでもない悪いことだ 。女性が結婚をして ,そして家庭をほっぼらかして出るなんてことは ,とんでもないということを森岡先生は先生方にむかって説いたようです 。 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihondaigakukyouikugakkai/21/0/21_KJ00009752767/_pdf

森岡常蔵先生の講義を疑う』と雑誌に投稿した。幸徳秋水事件があって、社会変化を感じたのもあるらしい。男女対等で、女性が家を出てもいいじゃないかとぶち上げた。
その後、しばらく投稿を重ねて、著書を出すまでになった。
大日本学術協会が主催した講演会「八大教育主張」が東京師範学校で開催されたのが1921年(大正10年)であるから、まるで自分の後を権威が付いて回るようで随分溜飲を下げたのではないだろうか。それを受けて1921年(大正10年)にもひとくさり本にするが、もちろんさらに提言する。それがルソーであったのでどれほど影響を与えたかは知らないが、八代教育主張は、大正新教育として現在知られる、現場の実践となって行った。つまりは、応用心理学である教育心理学が、百花繚乱のごときにぎやかさを見せたということだ。

20世紀初頭には、無意識と幼児期の発達に関心を向けた精神分析学、学習理論をもとに行動へと関心を向けた行動主義心理学とが大きな勢力であった

心理学 - Wikipedia

新しい時代が幕を開けたわけで、それが徳田秋声に欠けていた「こころ」を藤澤清造に与え得たかどうかである。

起源は哲学をルーツに置かれるが、近代の心理学としては、ドイツのヴィルヘルム・ヴントが「実験心理学の父」と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも「心理学の父」と呼ばれることもある[5]。

心理学-Wikipedia

哲学の立場を採ったのは渡部政盛で、ウィリアム・ジェームズの立場を採ったのが夏目漱石(と西田幾多郎も影響を受けたらしい。)で、ならば、藤澤清造ヴィルヘルム・ヴントかというと、むしろ、その弟子であるスタンレー・ホール。。。をも学んだ元良勇次郎ではないかと推測する次第である。