「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ①

1920年大正9年)柔道部が全国高専柔道大会で7連覇を達成。

第四高等学校 (旧制) - Wikipedia

あれ?

これ、面白い。購入して早速、耽読したのだが、そこに「高専柔道」は出て来て、これがひとつのチャント chant の響きを持って繰り返されたにしても、「四高」の名が出てきただろうか、読み飛ばしたのかもしれない。いや、著者の増田さんは「七帝柔道」の出身だから、「高専柔道」の方は紹介にとどまったのだった。

増田さんは、愛知県の出身で、北海道大学へ進学されたから、意識に上らなかったのかもしれない。

名古屋ー金沢は北陸道と東海北陸道どっちがいい?時間と料金を比較 | 幸せな生活のためのちょっとした工夫

腐しているのではなくて、思いがけず(決してわざとではなく)、歴史の表舞台からはひっそりと隠されてしまいかねない風情、消息がある。

江戸しぐさ」が問題視されたときに、僕なんかの(あくまで私秘的な)個人的感慨では、歴史なんてそもそもどうせある程度フィクションーNHK大河のような英雄伝ーやから大した問題ではないだろうと高をくくっていたのだが、或いは今日「文化左翼」と言われるような人たちかも知れないし、或るいは、文化ラディカリストとでも言いたくなるような人たちかも知れないし、これになると完全な憶測だが、「しぐさ」が許せないのではなく「江戸」を巡って許せないことがあるのではないかと勘繰ってしまう。それを持ち上げるにしても、意中で腐すにしても。

例えば、赤穂事件にしても、なんであんな大騒ぎになったかを考えてみるに、「江戸しぐさ」を「江戸」を称賛する心象から「嘘をつくな」と騒いだ人たちならば、江戸による支配の揺るがせから考えるのかもしれないし、「江戸何するものぞ」と対抗意識を燃やす、或いは恨みがましく思っている筋ならば、より至高の価値に拠る一元支配に対する挑戦と映ったかもしれないが、二重規範を当然として、情勢を見極めつつ、随分と利用した向きからすると、要は、加賀の前田家にすれば、当たり前の話である。しかし、それは、対徳川に対して秘されなければならない。
公称「100万石」の加賀前田家は、大聖寺藩、富山藩と枝分かれしつつ、実質「200万石」を誇った、陸海の「英雄」でもあったのだ(「陸の百万石」+「海の百万石」。加賀の百万さん、あれ善いのだけれど、双子じゃないとダメよ。200万石なんだから。まだまだ東京の文化的侵略を受けているよね)。

 

本願寺・加賀一揆上杉謙信―敵対から和睦・提携への道程―」竹間芳明
竹間芳明『戦国時代と一向一揆』日本史史料研究会ブックス(文学通信) - 文学通信

 

その基礎を提供したのが、加賀の一向宗であって、上杉謙信がどれだけ「戦の神」と喧伝されてもピンと来ない人たちも中にはいる。なにしろ、「戦の神」は(むしろ、、、当然に、、、柴田勝家なのだ(織田信長じゃないーどちらも「地元」出身ではないが)。

これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていく、画期的なものであったとみなされてきた[2]。しかし、政策の実態などから「中世社会の最終段階」ともしばしば評され[2]、特に近年の歴史学界では信長の革新性を否定する研究が主流となっている[3][4]

織田信長 - Wikipedia

士農工商」なんてあったかわからない過去の歴史であるが、「戦国(群雄)割拠」なんてそのうち大幅に修正が余儀なくされるかもしれず、少なくとも「廃藩置県」のような「後世からの整理」くらいの位置づけになるかもしれない(「加賀藩」はいつ誕生したか)。

そもそも、加賀の一向宗20万の「大軍」をし展開、、、する、、加賀と能登の戦略的地域において、織田、上杉のせいぜい2乃至3万が云々ということはあって、この地では、ただ戦略的に動けた者が「勝者」なのである。見かけのけばけばしさは関係がない。

柴田勝家が(あったかどうかわからない)手取川の戦いで進軍に「もたもた」したのは、徳川家康大阪城攻略に時間がかかったのと、基本構造が同じではなかろうか。
そうであれば、それを見破った、、、、柴田勝家が「偉い」のであるし、あるいはひょっとして、その秘密を大阪城築城に活かした豊臣秀吉が、という評価が成立するのかもしれない。

なにしろ前田のお殿様はまだまだ「やる気」が十分だったのであって、一応「一国一城」の命令に従ったのであるが、結局のところ、七尾城も残っているし、大聖寺城も残っている。七尾城の「登り石垣」が「無名」なのはなぜなのか(歴史的には重要視されないくらいには後世の構築物だからか)。或いは、遠い昔に源義経を助けた地勢に建てられた「浮き城」小松城も名城である。自然を「克服」できたのは近代以降という、峻厳な事実がそこにある。「白村江」も「元寇」も近代戦ではない。人が人を治めるのっぴきならない事情からくる「恐怖」を醸すことでしかない。その事実認識、、、、、、、イデオロギーに浴しているのだ。
なにしろ幕末には、富山藩の密使も兼ねただろうか薬売りを通じた昵懇の間柄にあった薩摩に硝石開発を教えたほどであったし、実際、北越戦争では「おっとり刀」でなお軽くいなしているのであって、「日本一の雄藩」だったのは、元祖「東京大学」を指導する人材を多数供給した加賀藩ではなかったか。加賀藩邸を提供する気前の良さであったが、あいかわず謀略に負けたのであった。同じ「外様」と呼ばれても、地勢的にも文化の威勢に於いても、薩摩、長州には地の利があったと思えて来る。前田利為の葬儀で怒ったのは、深い理由があったかもしれない。なるほど、赤穂浪士は見上げた連中だ。公儀の始末には遣る方ない。
先の大戦」とは(いまだに、一部の向きには)日露戦争のことであるし、戦後の「政治動乱」は(学生運動ではなく、政治的に冷めた地に於いて)、辻正信である。富山の米騒動は、そういった地方の「一揆」の話であって、中央の期待する「革命」とどれほど関係があるのか。


さて、何が言いたいか。

徳田秋声である。

 

高瀬正仁先生(オイラー研究所所長)が運営されているBLOG『日々のつれづれ』で「石川県専門学校」を検索すると、18件も表示され、特に高木貞治との関係が顕著である。

「石川県専門学校」の検索結果 - 無料ブログ(blog)を簡単作成!

まったく感謝の言葉しかない。

  • 1887年(明治20年)4月18日:石川県専門学校を前身として第四高等中学校が設立。同年8月に医学部設置。10月26日開校式。
  • 1889年(明治22年)6月30日:本館起工。同年7月8日理化学教場起工。理化学教場は、翌年、本館は翌々年の共に8月31日に竣工。

第四高等学校 (旧制) - Wikipedia

西田 幾多郎  1870年5月19日(明治03年04月19日) - 1945年(昭和20年)06月07日
徳田 秋声   1872年2月01日(明治04年12月23日) - 1943年(昭和18年)11月18日

西田幾多郎は19歳で、徳田秋声は18歳で、ともに1888年明治21年)4月に第四高等中学校に入学したと思うのだが、このころの学制がよくわからないので、なぜ1歳違いでこうなるのか、よくわからない。上杉の20歳での帝大入学は、病気によるものだとわかっている。

ちなみに、西田幾多郎は今のかほく市の出身(ユネスコ世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている賀茂別雷神社に関係して、「賀州神領」とも称された賀茂別雷神社領の荘園だった金津荘由来の金津村出身。金津荘には、末森城のある、宝達志水町も含まれる。合併前は宇ノ気町)で、徳田秋声金沢市藤澤清造七尾市出身である。能登藤澤清造と金沢の徳田秋声を繋ぐ位置に西田幾多郎が生まれた。

金津荘 - Wikipedia賀茂別雷神社 - Wikipedia

明治19年4月10日に公布された「中学校令」を受けて、翌明治20年4月18日、石川県専門学校を母体として第四高等中学校が設立されました。同年9月、西田は第四高等中学校の予科第一級に編入され、翌21年9月、第一部所属の一年生になりました。

日々のつれづれ |高木貞治 西欧近代の数学と日本 27. 明治初期の青春像

なにしろ、関口開という開明的な人が居て(関流を汲む滝流の免許皆伝を授かった人で、洋算に感銘を受け、自ら翻訳に励んだ。)、独学だったにも関わらず、多数の弟子を輩出した。そのうちの一人が、北条時敬であったし、また一人が、森外三郎であって、北条は西田幾多郎に薫陶を授け、森外三郎はやはり関口開に学んだ河合重太郎とともに、帝大へ進学し、菊池大麓だったか、藤沢利喜太郎だったかに学んだが、関口の恩恵が大きかったらしい。

「北条 時敬」の検索結果 - 無料ブログ(blog)を簡単作成!

関口開に学んだ河合重太郎に学んだ高木貞二は関口の孫弟子であるが、菊池大麓の数学には興味を示さず、イギリス行きの助言を無視してドイツへ行ってしまった。菊池大麓が悪いわけでもなく、関口にしてもトドハンターを使っていたのであるが、関口の指導には、実はこれは和算の教授法として常道なのだが、或る種の自発主義がうかがえ、その命脈を保ったのかもしれない。
菊池大麓は学習院でも教えるが、森外三郎も教えている。ここらへんは、白樺派との関係が興味深い。

日々のつれづれ |高木貞治 西欧近代の数学と日本 75. 関口開と石川県加賀の数学 補遺9 関口先生と西田幾多郎

西田幾多郎が四高を退学する原因を作ったと言われる当時四高の校長を務めた柏田盛文が薩摩の出身で、同郷の東郷平八郎から贈られた刀を飾っていた武士の出であった。
西田幾多郎大庄屋の息子で、自由民権運動に傾倒したというのだが、柏田盛文などは慶応義塾を出てそのままその運動に身を投じ、板垣退助とも行動をともにした当人なのであるから、どうしたことだろう。
なぜ、薩摩の人が四高へ来たのか不思議に思わないではないが、設立には前田家が大金を寄付している関係もあるかもしれない。旧知の間柄ということだろうか。

東郷平八郎の息子が学習院志賀直哉らと顔見知りだったらしい。東郷彪という人で温厚な人だったらしい。乃木希典は許せなかったが、東郷平八郎が許せたのは、単に場当たり的な気分じゃなかったのか、西田幾多郎の「不思議」な反発と比べたくなるし、関口門下の「自由」とその他の「自由」の趣の中身を知りたくなってくる。例えば、一木 喜德郞、美濃部達吉の「自由」もまた、報徳思想と英学をちゃんぽんした独逸学派という奇妙な「自由」だったが、渋沢栄一などの活躍で大正までは席巻した。森外三郎もそんな感じだったらしい。

そのあとには自由主義的な教育者として知られていた森外三郎が赴任し、三高の「古きよき時代」・「無干渉放任の時代」は大正の終わりまではつづくのである。

§古い同窓会誌から 同窓会報 53 金子校長排斥事件 和田 洋一(1981,昭2・文乙),三高私説編集人谷本 岩夫(三高昭23年理科卒)

とにかく、そこいら中で、欧州仕込みの「自由」には、反発していたのだ。当時の日本には欧州仕込みの「自由」とそうでない「自由」の2種類はあたのだろう。そうでない「自由」の方が、巷の受けは良かったのだ。