野学者渡部政盛の八大教育主張批判

実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる

慶應義塾 - Wikipedia

 単純に👇じゃないかと思う。

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福沢はペンシルベニア大学で学んだらしい。

アイビーリーグの中では実学の先端を走っている。

アイビーリーグ ~アメリカの伝統ある名門大学~|アメリカ留学なら栄 陽子留学研究所

 要は、福沢は、実業界における渋沢のような立場で、教育界で「顔役」になってたんじゃないかと思う。その福沢の作った慶応義塾の当初の性格が「蘭學」なのか「洋學」なのか「英學」なのかってあって、ちなみに、歴代塾長は、どうも英學出身なんだけれど。さすがに蘭學ってのは、どうなのだろう。

慶應義塾大学 - Wikipedia

ここには蘭學から英學へ転向と書いてある。

欧米に軽んじられない国を目指して近代日本の枠組みが整備されていった(その為、日本ではオランダ(慶應義塾大学等)やドイツやフランス(陸軍士官学校東京帝国大学等)、イギリス(海軍兵学校早稲田大学等)などの西欧の伝統的な教育思想に倣った教育機関(学校)が多く作られた

小原國芳 - Wikipedia

つまり、日本人のする「戦前の反省」ってまだこのレベルなんだよね。
つまり、福沢ほどの人物でさえ、このような扱いなのだ。

なんだ最近の英語教育の転換すら大正新教育の二番煎じだったのか。 


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渡部政盛という人物が居た。
山形県出身で師範学校を受験したが不合格となり、検定を受けて小学校教員になった人であるらしい。つまりは最終学歴が小学校卒なのだが、なぜか評論家に転ずる。大正期の珍現象として興味深いのだが、師範学校が「八大教育主張」と銘打って大正自由教育のムーブメントを引っ張っていたころだ。
『5大法律学校』にしてもうかがい知れるが、「学閥時代」のひとつの側面で、明治中頃くらいまでの門閥主義乃至士族主導が「平民」の勢いに押されて、日清、日露戦争という、増加した平民の力に頼らざるを得ない大戦争化の時代背景にあって、それら戦争の遂行自体一つの近代化の成果であるが、自由民権運動が群衆運動へと変遷してゆく中でその先導役を務めたのが、各「学閥」であったようだ。
「転び帝大」というと語弊があるが、英吉利法律学校へと流れた帝大出身者がわかりやすい。「學」として何を打ち立てるかよりむしろ、制度化の実権を握ろうというのであった。それに際して「在野」というフィールドがこのような背景を以て成立していた事実が重要である。現代風に言えば、マーケットのブルーオーシャンである。

レッドオーシャンの方は、「公法」(乃至政治学)から「憲法」、「憲法」から「民法」、「民法」から「商法」或いは「労働法」、または「刑法」をつぎつぎ生み出してゆくが、遂には、それら(漢/和(国)/蘭(洋)のー古くは天竺/震旦(唐土)/本朝のー三世界學※から米/英/仏/独などの各国學へ進んで以降、哲学、政治学、経済学、社会学と次々に出現する欧米の新学問やその背景にある新思潮をいち早く反映させながら興隆した)近代主義法学に対峙するマルクス主義法学が総括しようと虎視眈々と様子を伺っているのであったが(近代思想に対峙するのがひとつの特徴であって、その意味で、マルクス主義法学者は人権主義者ではない。近代人権思想の批判者であるらしい。)、それはまだ先のハナシである。
※「天竺」と言ってももちろん国境を画して成立する近代国家のインドと同じではなく、それが中国なのか、インドなのか、要は、「あっちの方」くらいの認識でさほど厳密には考えていなかった節がある。大切なのは、文物の中身であって、それに付随する由来と威光の方であった。蘭學乃至洋學は「外来」という意味で漢學の末席くらいの位置づけであったから、医者出身の森林太郎(鴎外)が論争家として奮起したのであった。

そうして、専門学校のほかにも、師範学校もあるし、女学校もあるわけであった。
「学閥の時代」とは、   的に言えば、「女」「子ども」「地方」に焦点があたったわけだが、志士然とした旧い「男」の時代が「乃木希典の死」というまさに日露戦争の陰影である象徴的な出来事とともに終わりを迎え、志士の気分になれずに「寂寥感」を抱えて鬱屈するか浮世離れするしかないその実ただの「女ぐるい」の「男」を社会に抱えた「大正デモクラシー」という色眼鏡をかけなければなかなか正視に耐えない社会実体が生起したのであった。
それが色眼鏡に過ぎないのは、与謝野晶子という傑出した人物が「女」にカテゴライズされざるを得ないことからわかる。与謝野晶子言語学的に見れば紫式部に匹敵すると思うが、『君死にたもうことなかれ』が日露戦争批判と受け止められた政治的偏見によって、もちろん当時盛んであった女権運動に従事していたのだが、「女」というレッテルを張られたのであった。

シモーヌ・ヴェイユは「女(性)」としてフランス人から尊重されているのだろうか? 

自らを<平凡人>であると考えており、彼女の哲学は<平凡人でも真理に到達することは出来る>とする、民衆に開かれたものであることにも感動しました。

ロビン
5つ星のうち5.0 著者の熱い思いを感じる力作!
2011年8月11日に日本でレビュー済み

 

〈〉に女を入れれば、与謝野晶子である。
これが慶応義塾大学出版会から刊行されているところが味わい深い。 

 

そのような   まさに庶民以外の何者でもない「小学校出」の野人にして野学者を自認する渡部政盛の、権威に論争を仕掛ける「疑問」(というか、正統な学識を持つ者からすれば、おそらく野次)が快哉を浴びたのであった。大正から昭和へ向かう近代化の流れにあって(文芸運動としては  ら新しい「男」によって、社会現象としては金融恐慌によって、大正デモクラシーとその政治的美称に過ぎない「大正デモクラシー」が終息を迎えたらしいが、それまでの)、その淀みの泡沫で在れ、興味深い事態が生起したのであった。
そしてそのような人物であるから、一方の「平民」出身の「英雄」美濃部達吉と反射しあう何かしらが在ろうと考える次第である。

 

教育学術問題批判 - 国立国会図書館デジタルコレクション

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihondaigakukyouikugakkai/21/0/21_KJ00009752767/_pdf

『最近教育学説の叙述及び批判』が500頁で、1918(大正7)年の渡部政盛が29歳のころ。いずれも「まとめ」だろうが、北一輝が『国体論及び純正社会学』を書いたが1906(明治39)年で23歳のとき。1000頁であった。
北はやはり「平民」出身であって、旧制中学を卒業した後、早稲田大学政治経済学部)の聴講生となった。渡部は日本大学で1年半聴講したらしい。どちらも独学の士と言ってよいと思うが、北は実際に穂積八束の講義を受講して批判している。疑問をぶつけるにしても直接本人に聞いていたようである。穂積や幸徳秋水との出会いがよかったのではないか。どちらも形而上的な議論もできるし、形而下的な議論もできる、当時の傑出した人物であった※。
※いかに傑出していたかは👇に反対的に現れるが 

また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した

北一輝 - Wikipedia

北も結局は、渡部と同じ野学者であったから、自由な立場から云々しただけで、内実は穂積らの学識の延長にあった。要は、「戦後派」は、バイアスをかけて捩じれてしまっているのである。すなわち、明治憲法体制は、そもそも論として、政治的であったのは、北も言った通り、〈国体(2)〉の前に〈国体(1)〉があったからで、要は、後付けで「國體」などと呼ばれるようになる前に、曖昧模糊として一体となった、つまりは概念上明確に区別されなかった、「政体」「体制」「憲政」があって、北はそこからそれらが順に現れたことを説くのであった。天皇の歴史について述べるのも、なんてことはない、民法学者が民法を立ち上げるにあたって、江戸の「三行半」から説くのと同じで、それと近代婚姻制度(法律婚)の離婚とごっちゃにしても仕方がないが、規範意識の形成としては、法学をある体系と見做す立場からは、本質的である。しかし、それが直ちに、規範となるかは別である。
北の主張の本旨は社会自体が善の器であることであって(社会進化論)、天皇もその器で醸成されて今日があるのだから、楽観的に受け止めているのであって、それゆえの「国民の天皇」観であったはずである(社会進化論ゆえの属性論。社会学と異なる点。これが北の限界であって、穂積は生まれ始めた社会学に関心を寄せてはいたが、まだ社会学自体が完成していなかったのであって、フランス的な自由放任に不安を覚えても言葉足らずな面があった。北もこの影響を受けたらしく、穂積らまでを噛み砕いて解説できたのは素晴らしいが、実はそれだけであった。要は、穂積直系の上杉がそうであったところを、素朴に語っただけである。ちょうどそのころ、デュルケーム社会学を科学として完成させた頃であったが、北はまだ信頼していなかったようである。これはおそらく教わることができなかったためではないか。穂積の限界が北の限界だったと思う※)。北は『右翼的国家主義的国家改造』を主張したのであった。それは人民観ではなく当時の議論の中心にあった主権観であって、君主主権ではないと言ったのだ。天皇主権とは国民主権であると謂ったのであった(つまり、天皇と国民は主権に関して背反ではないーこれは実質的に美濃部も、憲法改正に言及して、戦後憲法の理解で整理した見解である。したがって、一元的な君主主権とは自ずと異なるのであるが、天皇主権が一元的でないのかと反論を受けることになるのは、そもそも民主主義への理解の違いによるものであって、それは政体論というより、社会結合の原理論なのだが、回復契機と動員契機の2系統のニュアンスの置き方の違いを言うにしても、契機論が煮詰まっていなかったので、よくわからないことになっただけであった。そしてこれこそが、社会主義法学が勢いだけで何もできず瓦解した理由であったが、いまだに理解できていないので、散会してよいかすら決断できないようなのであったーそれがあの大論文の隠れた動機であった)。

※ここのトピックで言えば、渡部にはもっと限界が早く来て、それが単純に500頁という分量になって現れたのではないか。理論書として500頁を多いとみるか少ないとみるかである。しかし、渡部は数を増やしてゆく。つまり、「情報格差」の問題であって、獲得する情報量に応じているのではないのか。状況は渡部に有利に働いていた。批判的な言い方になるが「正論」が流布すればするほどそれに随伴して「俗論」をぶちやすいのである。いわば学問がサブカルカルチャー化して消費される群衆(大衆)文化の登場のようである。ならば、当時の(大衆)演芸はどうであったかと比較すると面白い。


そこらへん、どうしても渡部は理解不足で、そもそも体系的に理解するのが(キリスト教への理解が必須となるので、日本人にとって難しかったのであるが)苦手らしく、自由放任主義など「主義」ではないとの発言に典型的に現れる。だから、どうしても規範主義に偏るようだ。渡部が言っているのは規範信条であって、自由放任主義の「主義」とは、世界を理解するときの原理の選択を相対的に表示していることである(本人に「選択している」と対象化の自覚があるかは不明で「世界はそうなっている」とは思っているはずである)。ただ、フランスの自由放任主義にはある種の開き直りが見られともすれば露悪的な側面もあったらしいので、その非難ならわかる。要は、コンサート会場を睨んで「うるさいのは好きでない」と言っているだけだが。
せめて「天下(思想)」から比較できれば立論できたが、思いもよらなかったのであろう。規範の必然性が日本人的な意味で「自然」視されたのだった。
「規範主義」というのも、東大出身の、渡部の子、渡部晶の指摘である。渡部晶は大正生まれであったから、東京帝大に入学して(新制)東大を卒業した世代だろうか。研究者として日本大学に奉職したらしい。教育学を専門的に講じることができたようだ。