(主体)の行方は誰も知らない

Kendrick Lamar を聴いている。

10億回とかどうなっているのだろう。

スペイン語圏をマーケットに据えられるかどうかでワンステージ上がるって、take it lowが言っていたような気がする。

英語は確かに国際語だけれど、身の回りの「多様性」の実情でも微妙であるし、ネットの向こうでも微妙だったりする。

それでも英語が「実務教育」なのは、ネットの言葉がとりあえず英語であふれているからだし、英米の法体系を消費者法制から本格的に受け容れてレジテマシーの変更があったからだろうと思う(PL法制定時には考えられなかったことである)。

 

いまや、平成21(2009)年体制だったりする(消費者庁の設置年)。

それがあって消費者教育の延長としての英語教育のはずで、一方でPISA的なリテラシー教育と合流する流れだろうと思う。

もちろん、英語教育の発端がソレではない。
教育政策は息が長いことが特徴で、「どうして息が長いのか」を考えることがキーとなる。ときどきで付け加えられる経緯とともに、何かしらの社会実体を反映していると考えるのが自然だ。そうすると、世代間で理解差が生まれるので(機会的格差)、実はより遡って集約させる必要があったりする。

そうすると、結局、市民教育・エリート教育・産業教育に行き着いたりする。


古典学派(旧派)と近代学派(新派)
19世紀末のドイツを中心に刑法思想を巡る論争が発生して、各国の学会を二分した。今日の刑法理論はこの両者の思想から派生したものである。

刑法学 - Wikipedia

 

ということがある。

犯罪は、これらの原因によって引き起こされた、自由意思を持たない行為者による必然的行為であるから、刑罰の対象は、行為者の反社会性(危険性)であり、「罰せられるべきは、行為ではなく行為者である」と説いた(主観主義、行為者主義)[3]。ここでは、処罰の要件となる犯罪行為は、行為者の反社会的性格を認識するための徴表にすぎない(犯罪徴表説)

フランツ・フォン・リスト - Wikipedia

ドイツ実証主義の完成者はリストかケルゼンか 

チェーザレ・ロンブローゾに始まる古典的刑法学批判に社会学的観点を加え、近代学派を完成させた。

フランツ・フォン・リスト-Wikipedia) 

実証主義を最も厳密な形で採用し、科学的正確さを追求した彼の法理論、いわゆる「純粋法学」は、根本規範と呼ばれる理論に基づいている。

ハンス・ケルゼン - Wikipedia

リストはイェーリングの弟子であり、ケルゼンはイェリネックの弟子である。
どうもこの学統の違いが、実証主義の違いを生んでいる。

イェーリング功利主義的目的思想を受け継ぎ、また、実証主義的立場から、刑罰自体に必然性と合目的性を具備しなければならないと主張した(目的刑論)
フランツ・フォン・リスト-Wikipedia) 

その立場は法実証主義に連なるものとされているが、法の存在条件を社会的事実に求める英米的法実証主義とは異なる大陸系法実証主義に分類される。
ゲオルグ・イェリネックWikipedia

イェリネックは、イェーリングと異なり、何をしたか
 『法の存在条件』と「読解」するからわからなくなる。
「法」を行為の意味体系と理解し、言語的には、述語である。
さらに『存在条件』を「導出」と読み替える。そうすると、
「述語の導出を『社会的事実』」に求める『英米的法実証主義』となる。
さらに、この文を命題に置き換える

 述語の導出〈が〉Pである     〈指定系〉
 P〈は〉『社会的事実』である   〈措定系〉

これは、主体構文の述語からの援用である。
主体構文とはタイプ/トークンのことであり、typetoken):ただしtypetokenの変化:すなわち、主体(語られる)と主体が表現形と外部表示されるvoice(態)を内在する構文であったため、これを逆転したのが主語構文で、形容としての述語を採用し、その述語の操作対象(要素)としての主語を、主体|述語(主語)として表現することであった。このとき、主体は文(表現)の外部へ排除された。
さて、この場合、『社会的事実』とは文法的には『社会』と『事実』の結合であるが、その結合は何を指示しているだろう。ルターの属格の問題である。『事実』が『社会』に(必然に、機械的に)〈帰属〉するのか、『事実』は『社会』に(偶然に、機会的に)〈選択〉されるのか。
これは『事実』を「私」、『社会』を〈述語〉ゆえに〈態〉と考えるとわかりやすい。
前者は、語る(私)ゆえに主語構文、後者は私(語られる)ゆえに主体構文である。

 

イェリネックはこれに対比されることなので実は後者の立場を取るがそれでは彼を受け継いだケルゼンの実証性はどう保障されたか。もちろん「主体」の消去である。
評価を与えるとわかりやすい。構造上、type/tokenの二値〈が〉tokenを用いて(外部)表示されるときに(可能なフィールドにおいて)評価されることであった。

  述語の導出〈が〉Qである     〈指定系〉
 Q〈は〉「述語の導出」である   〈措定系〉

ならば、便宜的にT/Fを〈態〉の(背反的な)二様(二値)にそれぞれ与える。すなわち、「語る」ときTであり、「語られる」ときFである。
前者は、T(T(・))であり、後者は、T(〇(F))である。
前者は、評価の不変を通じた整合性への信頼であり、後者はここから〇を外部へ排除するのであるから、内部化という操作化を通じて〇(T(F))を構成する。これが対象化されるのであるから、〇|(T(F))であり、実はいずれにしたところで実質的に再帰化であるが、前者はいわば「クレタ人の本当」(と同質)で、後者はいわば「クレタ人の嘘」(と同質)となっている。
あくまで便宜的に評価を与えただけで、「本当」も「嘘」もないのだが、要は、前者は内部評価と外部評価の相同性を信頼する態度で在り、後者は評価を与える態として現れる参照性に着目した態度の違いであった。言い換えると、文に表示される規範も、存在に表現される規範も同じになることへの制度への信頼と、或る文に表示する規範も或る文に表示される規範も同じであることへの体系への信頼の違いだろうか。
これはいずれも実証主義、要は、主語構文主義なので、主体を外部へ排除するが、外部へ排除したところで、潜在的には、主体が抹消されていないことに注意が必要である。要は、ニュアンスの(裏からの)挿入という側面まで排除できないのであって、それが「悪法問題」として(主体から)語られる構造となっているのである。
そのニュアンスをもとより入れているのが英米法体系である。それを「経験」と呼んでもよいし、つまりは立法(制度)問題に帰着するので、「慣習法」と呼んでもよいし、「解釈(立法)」と呼んでもよい。反対に大陸法系にはこれらが「ない」ので、例えば、立法府憲法裁判所(が何をしているか)と考えてよい。
そう考えると、同じ「戦後」を出発した、韓国の第六共和制憲法が、より大陸法に近づくのは相当な実験である。韓国の司法判断にいろいろと言われるが、第六共和制憲法は基本的にレーニン主義憲法であって、「民族自決」を謳う。この民族主義による民主主義が国際法一元論とどういう関係にあるかの理解が重要である。これは戦後の国語教育なら荒木繁の主張であり、いまだに社会主義の理解が(批判的に)求められる理由があることを意味している。

植民地を含めた他領土・他民族の強制的「併合」を否定

民族自決 - Wikipedia

👆国際法上の「併合」を否定して、国際法に認められる「民族自決」 

美濃部・立両博士論争の素描-国内法と国際法との関係論について,中原,精一 ,明治大学社会科学研究所紀要(7)PP37-54,1969

従前の「対外国内法」の美濃部と新しい「二元論」の立だが(著者はさらに新しい「国際法一元論」を称揚する理想主義者であるようだー現実的には折衷的な一元的二元論とでも呼ぶべき立場が多くなるだろう。ただし、ニュアンスの置き方で言葉尻が変わって来る。経緯的に言えば「対外国内法」と「一元論」の異なるところが味噌だ。世界政府への信頼と裏腹で、時代背景を感じる)、美濃部のケルゼン批判につながる。 

 👇国際連盟の「真実」(と名高い)

 👇国際連合の「真実」(と名高い)

本書のキーワードの一つは、「『大イギリス連邦の平和』の名の下に『階等的な国際秩序』を認めた平和観」、すなわち、「帝国主義インターナショナリズム」である。> フランス国際政治や帝国主義についての専門家の東京外国語大学教授の渡邊啓貴先生の解説も一読に値します。

 hummingbird
5つ星のうち5.0 叡智と啓発の書!
2016年7月15日に日本でレビュー済み 

 

 ロジックの構成法のとっかかりを理解して、不完全であるが、ようやく法実証主義、就中、英米実証主義大陸法実証主義の違いが見えてきた。
こういうのは、ラッセルやフレーゲなど、論理世界の「金メダリスト」たちが、全員「ずっこけている」事実が大事で、素朴に考えても「どうしてもわからない」ことを認めるのが本質的に大事だったりするのだろうと思うに至った。

「戦後」社会というポスト戦前社会ががようやく変容を見せ、ポスト「戦後」社会という、戦後の為の戦後社会としての真護憲体制が、護憲派」から(なぜか。と言ってもアタリマエで、戦前のファシズム体制から「天皇」を「いずれ」排除したいだけだからー本質的に「天皇」をライバルと見做す戦前派である。だから、「日本史上、今が一番イイ」と思っている護憲派である自分からすると、違和感しかない。そんな自分だから、「歴史のif」としての戦前理解じゃない、事実である事実としての、美濃部は美濃部がある。
法学理解に優れていたのは穂積、上杉であって、それは学閥内の理解が進んだ大正以降、ようやく実を結ぶ。「神権」ということではなく、切っても切り離せない、抽象的実在理解である。
士族は「虚妄の学」である朱子学を教養としていたので、理解が早かったようだ。庶民は素朴な理解が中心である。そして明治のエリートは「士族」出身が多かったのは中期くらいまでだろうか?日清戦争のころとくらべて(明治27-1894年7月11日:東京帝大法科大学74名のうち、「平民」29名、「士族」45名。上位/下位を見ると、「平民」が13/16、「士族」が24/21で、「士族」出身者が上位に、若干と言ってよいのか、多かったようだ。)、10年で、日露戦争のころには逆転が生じたようだが(下に一覧掲示)ーすべての学生に理解しやすいワケではなかったらしいのは、学生からの一部の評判で読み取れるが、それを過大評価するのは偏向であって、その後の法社会を見ると、やはり、いかにこの理解に到達し、我がものとするかが枢要となっているーそれにつれて美濃部の威光に陰りが出る。
美濃部や一木はきわめて例外的な存在であって、同じ「平民」出身であっても、一木が潤沢な資金と豊かな社会背景を持つ「プロデューサー」、美濃部が走狗する「ディレクター」のような関係と考えた方が違和感がない。そもそも天皇機関説を提唱したのは一木であって、1年留学したかしなかったかよくわからない、美濃部ではない。それで結局、一木は報徳思想に帰るのであった。
彼は基本的に素朴実在主義者だったと考えた方がよいのではないか。どう考えても、報徳思想自然法は馴染まない。馴染むように見えるのだとしたら、それはおそらくもう自然法ではない。それでよいではないか、と言ってしまったら、それこそ法的保守を排除した政治的保守である。そう考えると、本当に「保守的」だったのは、一木か穂積か、美濃部か上杉か。
彼らには原則的な士族/庶民のエートス上の争いがあった。それは潜在的には外来/土着思想の対立で、古くは、漢学/土着思想の争いであったことが多少うかがえそうだが、どうだろう?)批判されつつ花開いているが、アメリカ型の社会に向かい今、「戦前」をさっさと捨てなはれ。

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これは上杉のもう一人のライバル吉野作造東京帝国大学を卒業した時の法科大学卒業生の数で、吉野自身は政治学科を1番で卒業しているが、このとき、政治学科ではなんと11番まで6番の1人を除いて「平民」が独占している。
ただ、これは年によってばらつきもあるようで、前年同時期(上杉が政治学科3番で卒業。)では、137名の卒業のうち、「平民」が73名、「士族」が59名、「華族」が5名でやはり「平民」出身者が多いが、上位/下位を見ると、「平民」が36/1(37番)/36、「士族」が31/28(、「華族」が1/4)と「士族」出身者も健闘している(政治学科の上位11番を見れば、「平民」が6名、「士族」が5名である。ちなみに、11番は「士族」出身者であるが、1番も「士族」出身者である)。

官報. 1894年07月11日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
官報. 1903年07月14日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
官報. 1904年07月13日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

重み付けをしたうえで係る卒業生の分布の「政治力学」でもわかればよかったが、重みの付け方がよくわからないので、単純に数字を積み上げるだけにした。それでも、「平民」出身者の勢いがわかる。

天皇制と帝国大学-京都帝国大学を中心にして- 河 西 秀 哉
中野文庫 - 帝国大学令

吉野は洗礼を受けたのであるが、「新人会」を立ち上げ、社会主義の普及に努めた。ここに『人道主義』が出て来る。

吉野作造 - Wikipedia
新人会 - Wikipedia

この『人道主義』が『人文主義』とどう異なるのかが、大正デモクラシーにとって重要だろう。なにしろ、吉野は、元祖転向社会主義者なのだ

転向とは - コトバンク
転びとは - コトバンク

「弾圧」から入ってしまうと、どうにもわかりづらい。ここらへんも訂正に修正してゆかなければ近代史が意味不明なことになると思う。「弾圧」の拠らずに「挫折」に拠るのは、数十年先行して似たような歴史を持ったアメリカが参考になる。日本人はポストモダン社会からモダン社会(ポストキリスト教社会)に遡ったから捩じれた経緯を個人史に持つことになったようだ。
そういった経緯が、「民本主義」という不思議な言葉を生んだのかもしれない。エラスムス流『人文主義』ならば、ルターに言わせれば『人間中心主義』であるが、キリスト教を否定したわけではない。

ヒューマニズム - Wikipedia

そうして吉野も晩年には「民主主義」へ転向したようだ。
なぜ、「庶民」と「平民」を分けたかと謂うと、東北の場合なんかだと、士族と士族以外が同じ塾に通っていたこともあったように記憶しているからで、そういった塾には誰が通えたか疑問だったからである。ただ、吉野は富裕層ではなかったので、そういった意味では、一木よりも美濃部に近かったかもしれない。誰がどういう影響を受けたがゆえにどう考えるに至ったかはなかなかわかりづらい。

商船三井 - Wikipedia

「三井」はさすがというか、帝国議会の最初から出て来る、近代日本の裏の立役者であるが、今回は、「山下汽船」の方である。

山下亀三郎 - Wikipedia

山下亀三郎の「学歴」というより「学習歴」を見ると、「庄屋教育」「山本覚馬の私塾」「明治法律学校(特に、穂積陳重の個人授業)」である。「明治」「一橋」は明治中後期から日露戦争を挟んで大正期を考えたときに独特の存在感を示している。「民法の時代」から「商法の時代」への移行である。
山下は日露戦争を契機として海運業で成功を収めたらしい。秋山真之も同郷だったのだ。
この山下汽船の社員だったのが、やはり山下と同郷の石原潔であり、石原潔は石原慎太郎石原裕次郎の父である。石原慎太郎一橋大学へ進学し、石原裕次郎は慶応大学へ進学した。石原慎太郎の「軍人気分」は山本ー山下(汽船)経由なのか、秋山ー山下汽船経由なのか、東京商業(一橋)経由なのか、「船好き」なのは父親の影響であるようだが。
かように「平民」にもいろいろなヒトが居る。石原慎太郎の気分は一木喜徳郎とはまた異なったものだろう(森喜朗とも違うだろう)。美濃部と吉野はどうだっただろう。
トルストイの言うのとは違って、庶民の気分はひとそれぞれではなくむしろ似通っていて、富裕層の気分はひとそれぞれであったのではなかろうか。日本の特殊事情として、キリスト教はどうもヒトを選ぶ。社会主義くらいだとなぜかウケが良い。抽象的理解力への訓練の度合いが関係しているのではないかと思えるが?
「庄屋教育」がよくわからないが👇のようなことだったろうか?

www.city.okayama.jp

回船問屋河本家の私塾。全国に名を轟かせたらしい。

 

 

そうすると、ひとつの疑問が浮かぶ。
刑法学上の『学派の争い』にみられる、旧派(古典派)と新派(近代派)は、上の2人では、イェリネックが前者で、イェーリングが後者だろうと思うが、

 

 

 

独自の社会的事実の科学としての社会学の確立を企図した。社会的事実を個人の心意には還元できない一種独特の実在としてとらえ、これを「事物のように」客観的に考察し、その発生や展開を社会的諸環境と関連づけて説明する

デュルケームとは - コトバンク

 

 

イマヌエル・カント                                           1724年4月22日 - 1804年2月12日

ルドルフ・フォン・イェーリング                    1818年8月22日 - 1892年9月17日
フランツ・エードゥアルト・フォン・リスト  1851年3月2日 - 1919年6月21日
ゲオルグ・イェリネック                                   1851年6月16日 - 1911年1月12日
ハンス・ケルゼン                                              1881年10月11日 - 1973年4月19日



エミール・デュルケーム    1858年4月15日 - 1917年11月15日


イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント
                1798年1月19日 - 1857年9月5日)
サン=シモン伯爵クロード・アンリ・ド・ルヴロワ
                 1760年10月17日 - 1825年5月19日
ハーバート・スペンサー      1820年4月27日 - 1903年12月8日