人間は主体(表現型)か主語(要素型)か

 

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 さて、『山月記』への増淵の理解が、大正期の新教育運動(主体としての「子ども」の発見。子ども中心教育の実践※)に根差した戦前からの試行の延長にあって、新思潮の登場となった荒木への対抗として

 

※これが意外にわかりにくいのは、徹底して〈主体〉化された社会の後にしか生まれ得ないからで、当然に、その考えが自己にも根付いているからだ。しかし、例えば、「老人」というヴォーボワールの言う(女性、子どもと並んで)「劣る」と形容された〈主体〉を考えることで、(戦前を)相対化できる。戦後は、福祉対象として要素(述語に従属した因子)化された〈高齢者〉が生まれるからだ。そして、それらは統合されているのが特徴だが、統合にはー本質的に二系統の一方への取り込みに見られる内部様相としてのー傾向がある(このような秩序内部の様相を扱った代表が「赤穂事件」である)。
興味深いのは、主語化には再帰化が関わって(離れて)〈to〉化する文法機序を持つことが本質で、that、彼、彼女といった第三人称、古くは第二人称(貴方:彼方)と、〈私〉という主体と対峙して、似たような働きを見せるのであった(autos 意味と語源 – 語源英和辞典)。これが〈モノ〉化をして、それが、「疎外」と呼ばれようが、「寂寥感」と呼ばれようが、「孤独」と呼ばれようが同じ源泉を持っているだろう。すなわち、係る統合の様相である。社会とのアナロジーである(したがって、社会学主義、社会主義にプロットされる)。

もう一方の「劣る」存在の〈子ども〉は「「ゆとり教育」批判」で秩序問題を現前化させ、それが階層化への動員機序(正統性)を巡るものだったことが、回復機序(正当化)を訴求する差別語の噴出で明らかとなったのであった(それが偽装的であったことがわかるのは、事実を以て反証されたからである。ここで重要なのは「後からわかった」ことではなく「最初からわかる気がなかった」ことである)。差別は階層間で(も)起こることが実証された。

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最後の「劣る」存在である〈女性〉については、

 

要は、〈芽〉としての一元論と〈鏡〉としての二元論からすれば、神の表現型としての主体(普遍機序)から、社会の表現型(啓蒙期)としての主体(一般機序:共通機序)、社会の表現型(発展期)としての主体(共有機序)へ移行してきたのであるが、このとき、一方で、主体から主語を(述語の要素化を通じて)切り離して考える実証主義が起こるが、これは象徴表現を無形容に肯定する目的化であって(目的論を再帰的に目的のうちに解消することであって、合わせ〈鏡〉となるので、無限を内包するのは実は当然であるのでーそもそも主体を呼び出す表現型問題はグランドセオリーとして有限/無限問題であったー、ケルゼンが原理的に画期的だったのではなく、主張が学統上革新的だったのであった。態度としては、教養のない田舎牧師に過ぎなかった  と別に変わりがない。)、シンボル操作の可能性に意味を制限する記述主義の一種である。したがって、ドイツから前期ヴィトゲンシュタインが生まれるし、後期ヴィトゲンシュタインも生まれる。

着目すべきは、イギリスがラッセルを生んだことだし、アメリカがデューイを生んだことである。マルクスデュルケームより先に生まれたが、ともにドイツに学んでいるのであるから、学統として同じか或いは近接していると考えてよいと思う。要は、今まで見たように、〈主語〉化が社会を通して考えると〈モノ〉化になるという、要素論である。これが否定しているのは、当初は神であって、テクニカルにはデカルトエーテル(媒介)であるから、ニュートン式の機械論に近づくが、ニュートンは神を否定していないグノーシス主義(神の表現型主義)なので、根本的に異なる(ここには三位一体以来の神と言語の関係理解が横たわる。神を信じるがゆえに言語の媒介性を否定する系譜を継ぐのがニュートンであって、その意味で直観主義である。マルクスは神を否定する社会主義者であって、神に変わって社会の善性を信じる者たちのさらに後の世代であってー前世代を批判してーなお、或る統合的一元論者であるから、「予定論」としての目的論をぶつ。目的論を否定したのが近代の諸科学の達成であって、それは一部にはニュートンも、オイラーも、人文系だって刑法の  もそうであったが、マルクスは統合する際に、反対に、目的論に差し戻した。このとき善の問題がおざなりにされたので、マルクス理想社会は実はユートピアである。目的論の趣旨は善に向って「そうなる」ことであるが、肝心の善の内容がわからない。その元祖であるキリスト教の方が親切なくらいである。神はなにしろ神であるので問答無用であるーそれが有限/無限に技術的にプロットされる  以来のグランドセオリーの正統論の本質である。だから、同じように統合主義者であってもデューイが輝くのであった。その意味でドイツ人の先輩ケルゼンの方がまだマルクスより親切で、どこかにきっと何かある、くらいは言った。技術的なことを言えば、必須の2系統である、回復機序:正当機序~正義論と動員機序:正統機序~倫理論を前者に統合して様相化するのがマルクスだが、その様相のスペクトラムが「赤穂事件」のように十分喧々囂々されていなかったのであった。だからオルグによる殺人事件が起きる。マルクスが悪いわけでもないが、マルクスが悪くないわけではないのが、血盟団事件を指導した上杉と同じである。欧州伝統の神学論争の学統に連なるその末裔でない限り、前提があまりに多すぎて、何を言っているかわからないのだ。これは必ずしも、所謂「頭の良しあし」でないのは、「ニュートン唯物論者」と言う物理学者が「戦後」においてすら珍しくはなかったのだー明らかに間違いである。そう考えると「昭和」というのは頓珍漢な時代であった)。